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安倍晋三の罪?! [社会]

確かに予報は出ていた。

だが、それにしても単なる寒さと雨はあまり共通しない。それがけっこうな降雨と梅雨時と見紛うばかりの長雨。

それが予報の日時に近づくに従ってみぞれか雪の降るところもある、そういう話に切り替わっていった。

そう、これから段々暖かくなると言うか夏に向かって暑くなる日も増えてくるのではという夏日を迎えた地域もあるという、この時期に真冬でもこれだけの寒い日は一年にあまりないという、その寒さが来た。

これは円安誘導で消費財が値上がりして個人の懐の寒さが倍加しているところに、アベノミクスなる経済政策でデフレから脱却して経済が順調に回復する、という触れ込みで日本のみならず世界各国で中身のない、この政策をアピールし続けた、その経済政策がお寒い状況にあるという、二重の寒さが寒気を日本に引き込んで季節外れともいうべき真冬の寒さになったものだ。

このどちらかでもましな状況にあればこれほどの寒さにはならなかった。
だが、この4月からあれやこれや我々の懐を直撃する諸物価価格の上昇。
寒くならないわけがない。

つまりこの季節外れの寒さは安倍晋三の経済政策が呼び込んだものだ!

さて、安倍晋三や自公政権の横暴ぶりには眉をひそめる御仁でも、上記の論理、正しい、そう思う人はいないだろう。

まあ、安倍晋三の政策が我々の懐を直撃し、それも中小企業や一般庶民は円安でアベノミクスなる経済政策が実施される前には同じものに対して支払っていた金銭の1.5倍近いものを支払わなくてはいけなくなったのに、方や大企業は円安で輸出好調になり利益幅が膨れあがり、そのいくばくかを従業員の賃上げに回しているという構図。

つまり我々庶民から搾り取った金を一部の大企業やその従業員に回すという構図を作っているのだから、私が安倍晋三のことを暴騰述べたように揶揄しても、安倍晋三はそれだけのことをしているのだから、全く関係ないとは言えないのだ。

ところが、栗田健一なる人物は、上記のような、ちょっと考えれば全く論理的に合致しない状況のものを、栗田健一とは全く関係ない私に罪を着せて頬被りしている。

どっちが犯罪者なのか、そう思うのだが馬鹿は馬鹿の論理で動くという、その代表的な例なのだろう。しかし、世の中にはこういう人間的に愚劣な裁判官達のせいで大変な目に遭っている人達が多い事、知って欲しい、そう思う。

冤罪は自然に起こるものではなく、馬鹿としか言えないほど狭量、視野が狭いかあるいは自己保身、自身の出世しか頭にない人間性の愚劣な裁判官達の悪意がなければ起こらない。

結論からみるととんだことに名を出された安倍君。しかし、君も我々庶民の金を金持ちに持っていくような政策を取っているのだから罪は重いのだよ。

一片の曇りも許されないこと [社会]

私がサラリーマンとして仕事をしていた時、いい加減な仕事をしているなあ、そう感じることは多かった。だが、これは私ではなく周囲や取引先の仕事ぶりについての感想だ。たまに、そこまでやらなくても、と思うようなしつこくやる人物もいたが、そういう人物に限って的外れという事だったり。

私の知る人物の中で、そのしつこい仕事ぶりをする年長者がいたが、基本中の基本をその人物がやっていたので、これは周囲が悪く言うことではなく、むしろそういう人物が社内にいること、会社の製品として信頼性が上がる、と評価すべき事だったはずなのだが、評判が悪かった。

評判が悪いというのは、社内にその仕事に対しての理解がなかった、そういう事になるのだが、まあ、そんな事、分かるような輩がそこには私以外にはいなかった、それがその会社の将来を暗示していたのだが、案の定、私が見通した結果に繋がった、私はそう見ている。

さて、そのような話が民間企業の中であるならば、業績不振程度の自業自得で終わるかも知れない。だが、宗教の世界でお坊さんがいい加減なことを言ったり、本人が確信に欠けることをしたら非難されるのではないだろうか。見えない世界に関することは、それを伝える人の絶対的確信が必要なようである。

これが警官であったらどうだろうか。これも逮捕や送検あるいは処理に自身で疑問があったとしたらどうだろうか。それでも、やって良い事だろうか。相手のないことであれば、害がない、そういう事もあるかも知れない。しかし、相手のある場合、その対象者やその家族や友人達には大変なことになる。

警官にはどうもこういう大事な事に対する認識が薄いのではなく欠けているようである。だから平気で人を罪に落とすのだが、もっとひどいものがある。

以前のブログにも書いたが、物理のぶの字も知らないくせに知ったかぶりをして運動エネルギーが40000ジュール以上あるから衝突エネルギーも40000ジュール以上などと、そうではない前提の構図を認識している上で小学生並みの事を判決文に書いた裁判官がいるのだが、事実関係を知らない皆さんはあまり理解できないだろう。

だが、以下の説明付きならどうだろうか。
車がある速度で自己移動している時に運動エネルギーという物理量を出す場合、速度や質量に依存する運動エネルギーの算出式に数値を嵌め込むと結果の数値が出てくる。この運動エネルギーが40000ジュールだとして、衝突エネルギーが40000ジュールという数値になるにはこの自己移動している車が瞬時に速度がゼロになるほどの衝突があった場合、つまり運動エネルギーの40000ジュール全てが変換されて衝突エネルギー40000ジュールになった、そう言えるのだ。

これは時速30キロで走行してきた車が例えば地下駐車場の大きなコンクリートの柱とかあるいは一般の道路際の電柱等にぶつかってその柱のところに止まった場合に、持っていた運動エネルギーが全て衝突エネルギーに変換された、そのように言えるものだ。

だが、車の前部に大きな損傷どころか打痕すらないものが、人が乗った自転車を撥ねたと訴追していて、車が一瞬にして止まってもいない、その事故構図を認定した上で、上記のようなことを裁判官は言うのだ。どこの世界に人の乗った自転車と衝突した1トンを越す車が衝突した地点で瞬時に止まる構図があるだろうか。

こんなものは一点の曇りもないどころの話ではなく、それこそ、勝手な話を持ち出すだけで罪悪であり、こういう話を持ち出した本人こそ刑務所に入るべきものである。

また、例えば、時速35キロで人の乗った自転車に車をぶつけてその乗員をボンネット上に撥ね上げて等という内容の警察調書。裁判官は時速は30キロと認定する、そう言っている。裁判官は被告人を嘘を言う姑息な人物と認定しているのだが、そういう姑息な人間が事故について実際の速度よりも大きな数値の車速を言うだろうか。当然姑息な人物であれば、罪を逃れるあるいは軽くなろうと自身の責任を小さくあるいは無くすために過少申告するので、まさか時速30キロの車速だったら、時速20キロとかそう言うのではないだろうか。

心理学の専門家と称して、心理面での話になると弁護士や心理学の専門家等には決して解釈の面で譲らないという裁判官にして、この馬鹿馬鹿しさなのである。
さて、もっと馬鹿馬鹿しいのが、ボンネットに跳ね上げてという調書内容である。

裁判の過程でボンネット上に跳ね上げてなどという事実認定は検察も裁判所もできていない。そりゃそうだろう。僅かにボンネット上に残る条痕(あくまで条痕であり人がぶつかったような面上の凹み痕の欠片もない)を自転車籠の底部による傷などと強弁し続けた手前、他に傷がなければ、さすがの嘘つき検察でも、言いようがない。

つまり調書の内容と物証に整合性がない。これっておかしい、一般人ならそう思うだろう。何故ならば警察調書は、事案に関して捜査して事実となる事を元に作成されるものであり、事実と整合しない調書など認められるはずはないのだ。もし、事実でないものでも調書として認めれば、これは幾らでもでっち上げができる、即ち捏造でも何でもありで冤罪の山となる。

ところがそういう常識的な基礎部分でも裁判所は平気で間違いを犯す。
事実と整合しない調書を認めてはいけない、その基本中の基本すら理解できない人間が何故、裁判官などという職業に就けるのだろうか。

裁判というものは人の生活や将来までもそしてその家族、友人の運命さえも変えてしまう大変なものであるのに、裁判官の出す判決は一片の曇りもないどころか、一つ一つ間違いの山である、これがどうも通常の裁判らしい。

裁判官というと難しい司法試験を通って司法修習生としても優秀で人格も高潔、その様に思われている人が大半だと思う。

しかし、たった一つの案件で見たって間違いだらけ、それも判決に関わる根幹のところで間違い、人格高潔などとはほど遠い、自身の保身優先で無実の人間でもあくまで罪に落としてやろうなどと言う栗田健一他のような人物がやっているのだから、とんでもないことなのだが、彼らにはここで書いた意味合いでさえ理解できないと思う。

所詮、上だけ見て暗記優先で学業してきたおつむには、本来の裁判の意義も意味合いもわかっていないだろう。
だが、裁判の判決には一片の曇りも許されない、そういう性質のものであること裁判官達が理解し実践しなければならないものなのだ。自覚できるだろうか。

守られない交通マナー [社会]

昨日はエープリルフール用に我が家の天才娘というかお転婆猫との会話から嗜好を変えて書いてみたのだが、以前書いたエープリルフール向けの内容、未だにアクセスが多い。という事で罪作りにならない程度で少し遊んでみましたが、皆さん、心の余裕はどうでしょうか。

さて、ではいつものスタイルで。

私が交通事故であらぬ罪を着せられたからと言うわけではなく、常日頃から明文化しなくてもマナーレベルとして、お互いに気をつければ角突き合わせて生活することがない、そのように思う事、意外とできていない。

我が家には90を過ぎた高齢者がいる。笑い話ではないが、こちらが聞き取って欲しいと思う音声は聞こえず、どうでもいい音源だけは聞き取る。

高齢が故に突発的な音は心臓に悪いらしい。
しかし、環境騒音とでも言おうか、車社会では轟音を上げて走る車や無用な警笛を、しかも、不快に感じるような鳴らし方をする人物もいる。

以前、我が家の向かいに住んでいた家族の中の若者がそれこそ隣近所に聞かすつもりか、大音声でステレオを掛けていたが、たぶん、誰も注意をしていなかったのだろう。ちょうど父親が亡くなって、私が実家に移ったばかりの時で、母親の心臓に悪いと、注意をしたのだが、こういうのは同じ地域内なので対応がつく。

ところが、住宅地で他の地域から別の地域への通過に便利とばかり、我が家の前の道路が通り抜けに利用されるのだが制限時速30km/hの標識があっても実際には近隣住民にとってはせいぜい時速20km/hで走ってもらわないと引っ掛けられる可能性のある生活道路なのだが、そこを40km/h以上で吹っ飛ばしていく車がけっこう多い。

だが、この道路には郵便局が面していて、朝から晩までかなりの車が利用している。つまり郵便局やその周囲に車を止める状態が日常化している、そこに通り抜けしようという車が絡んで、それら駐車を意図している車にどけ、とばかりに大きな警笛音を鳴らすのだが、これが聞いていて不快になる出し方をする。

鳴らす本人はそれ一回のつもりかも知れないが、ここに住んでいる人間にとっては、それが定常化して騒音公害にさらされているのと同じになる。

確か、車の警笛音は”どけ”という意味合いで鳴らしてはいけない事になっているはずなのだが、バックすると危ないよ、そういう警告音ではなく、駐車しようとする車の所に自分が後から来て、すぐさま、大きな警笛音を鳴らすのだから、鳴らされた方だって、びっくりしたり焦って、ブレーキとアクセルを間違えて踏んでしまうかも知れない。

幸い、今まではそういう事故がなかったが、その郵便局は母親も含めて高齢者がけっこう利用するところなので、不心得者がこの道路を単なる通り抜けに利用して欲しくはないのだ。通常は車が多いと迷惑に感じるだろうが、私はそういう駐車しようとしたり駐車する車のせいで、むしろ通り抜けの車も速度を落とさざるを得ず、その方がここに住んでいる人間や歩いてこの道路を通行する人間にはよい、そう思っているのだ。

ところが事情を知らない巡回の警官が時折、駐車禁止だとかスピーカーで警告していくのだが、だったら、速度違反する車を先に取り締まれ、そういう事だ。結局、警官などと言うものは我々の生活にはちっとも貢献しない存在でしかない。

昨日、長距離ドライブでやはり自転車専用レーンが設定された車道を走ったが、相変わらず、逆走状態で走る自転車が多い。環境整備と言っても結局、土建業者と癒着しての道路行政なのではないのか、そう思う例が多々あるのだが、ハード以前にソフトが先行するという事、何故日本では少ないのだろうか。

敗戦国将兵として言えなかった話 [社会]

この話は私がブログに、中国に侵略戦争を旧日本がした、という事を書いたとか、以前に聞いていたとか言う話ではない。

NHK朝ドラの”まっさん”で登場人物の一人が招集される、そのストーリーを見た直後に母親が、語った話である。

前置きが長いが、子供の時代から私が色々なことに関心があって、特に戦争というもの、何故、理不尽な事が起こるのか、そういう事を私が義憤を感じる、そういう子供であったために、母親が、戦前、戦中、戦後の私の知らない時代についてよく話をしてくれていた。

ほとんどは母の実体験の話だったので、こういう中には嘘がない。登場人物が同様の話を別の機会にしてくれるのでそれが分かった。ただ、それが全てだとは言えないので、戦争の一面として私はそれを記憶の中にインプットしていた、という事である。

ところが、今日、母親が話し始めた内容は、本当に初耳であった。

私の父親も招集はされている。父親は8人兄弟で、若い時から工場を任されるという任を負った伯父と肺を痛めた叔父を除いて男兄弟は招集され、長兄はシベリア抑留まで体験している。別の兄は、航空隊にいたがパイロットという特質を生かして敗戦時、外地にいたが、戦闘機で脱出して日本に戻ってきた、という。

だが、私の父親は幸か不幸か後方勤務で外地に行っていない。したがって実戦部隊の悲惨さは経験していない。その両親が、父親の勤務先の同僚だった人物の家にたまたま寄った時に、その人物は戦地に行っていた、という事で話が出た。

その話だが、終戦で武装解除された後、従軍看護婦達が戦車を取り囲むように並ばされたのだという。そして、機銃掃射で全員、殺されたという。助けようにも武装解除の後なので、武器も持っていない。悔しかったがその現実を受け入れるしかなかった、そういう話をされたという。

戦争の中で、旧日本兵自体も中国人相手に理不尽な事をしてきた、だからお互い様、そういう事なのだが、なかなか人に話せる内容ではないので、黙っていた、そういう事をその人物に言われた、というその話をはからずも今日、母親が私にしてくれたのだ。

しかし、従軍看護婦は、言わば赤十字のような立場であり、兵士だって負傷して武器を持てなくなれば、敵味方問わずに救護するのが例え戦争であっても不文律。そういう心さえなくして、相手側にそこまでさせるような残虐な行為を本当に日本兵がしてきたのか、そういう事も本来であれば戦後の総括として日本はやるべきだった、いや、まだ遅くはないのだが…。

前のブログで南京大虐殺などと旧日本軍がとんでもないことをしたかのように中国側はあるいはその発信によって世界で思われているかも知れない裏側で、一方の中国兵もとんでもないことをしていた、そういう話があるのならば、やはり総括をした時に、中国兵や日本に帰り損なった朝鮮在住の人達の悲惨な実態も表に出すべきだったのだ。

全然関係ないインドシナ半島、あるいはシンガポールそれにインドネシアやフィリッピン等に旧日本兵が軍隊として進駐している事実があってさえ侵略戦争はしていないとか訳のわからないことを言っている自民党大臣のようなおかしなのがいるから、意義も意味も分からず、靖国に戦犯が合祀されたり戦争の総括も行われていない。

兵隊さん達の救護を目的として従軍した看護婦達は銃を取って戦ったわけではないのに、何故、中国兵の銃弾に倒れなければならなかったのか。その責任は誰にあるのか。

結局、昔、戦争に駆り出された人達は人に言えない経験が多い、そういう事で語り部として次の世代に伝えるべき経験を話してこなかったのではないだろうか。

だが、私でさえ、こういう話を、もう90をとっくに過ぎた母親から今日、聞いて知ると言うことは、まだまだ表に出ていない話がいっぱいあるのだろうと思う。総括をしなかったばかりに、貴重な話を埋もれさせていいのだろうか。

原子力発電所の設計思想 [社会]

皆さん、設計思想という言葉があることご存知だろうか?

文系出身者でも製造業に携わる人なら聞いたことがあるかも知れないし、理系出身者でも聞いたことはあっても具体的にどういうものを指すのか、知らない人も多いかも知れない。

その昔は、機能優先という事で設計思想に安全などという考えは一部、石油あるいは石油化学プラントのように機器の故障が火災やプラントの生死に関わるような重大事故に繋がるようなものを除いて考慮さえされていなかったように思う。

”思う”というのは、私が知る製品類でそういう話をついぞ聞いたことがなかったためである。いや、車も例外か。日本が遅れている、そういう指摘のあった時期、ボルボやドイツ車などは、しっかりとした思想があったように思う。だが、日本人として見た場合、車も断言できるほどの安全面の設計があったとは言えないのははっきりしている。

清涼飲料の配達のアルバイトをしていた時に、アメリカ車が駐車していて、仕事そっちのけで、配送の社員が、さすがアメ車はスピードが出る分、ごっついなあ、そう言って、所有者がいない事を幸いにドアを開けてその分厚さなど感心していたが、厚さだけで20cmは優にあろうというドアに圧倒されたものだ。

さて、本論に戻るが、原子力工学の専門家達は原発建設の御用学者になるのが、そのエリートコースのようになっており、原発建設の是非をテレビ討論などで発言する場合も、反対派を、何も知らない素人として、丁寧な説明無しに鼻でせせら笑っていたシーンが記憶に残っているのだが、さて、彼らの設計思想は何だったのだろうか、そういう疑問が事故の起こった後、私には思われてならないのだが、どうなのだろうか。

ホリエモンは想定内、という言葉で多くの岐路を乗り切る自信を示したが、想定外は彼の部下であったはずの連中の裏切りと検察や裁判所の、法の解釈の変更という既存の法律の適用による違法行為と決めつけられたものだったのではないだろうか。

しかし、こういうもの、人為的な対応で有罪無罪が分かれてしまうというたいしたものではないのだが、原発は事故もそして、事故でなくてもその放射性廃棄物という人間が制御するには厄介なもの、これらについて全く見通しのないもの、見切り発車をしただけに過ぎない設備だが、結論からいえば設計思想があったとは言えない代物である。

被ると窒息する危険性があります等家電製品や玩具類の入っている箱等に製品の入っているビニル袋でさえ、そのように警告として消費者向けに出しているのが今の、消費者向けの製品である。消費者の取り扱いようによっては、製品本体ではなく、付属品や包装目的のものにでさえ消費者に警告している。だが、自らが消費者に害を与えるものとか、可能性があるなどという事はうたっていない。

ところが原発は、その立地住民がどれだけ気をつけていようが、一度事故が起これば、私は原発に関与していない、などと周辺住民が言おうが言うまいが、その放射能に害を及ぼされる。

ここに想定外などという言葉は通用しない。
福島原発の事故について東電の関係者を告発した件について、検察は、東電関係者を不起訴としている。だが、前述のように想定外などという逃げ文句の通用する設備ではない。想定外を持ち出した時点でその商品だったり設備は破綻しているし、設計思想などという高尚なもの、存在していなかったと言えるのだが、果たして原発関係者及び御用学者達のどれだけが、設計の根幹を理解しているだろうか。

人間が制御できない対象について設計思想などというものは存在しないのだが、どうも一部御用学者達には、そういう事理解できていなかった節がある。
その理解できていない人物達の作り上げた設備を稼動させるのはいかがなものか、そう思うのだが、次に事故が起こっても想定外と逃れるのだろうか。

FBIからのメール [社会]

ソニーアメリカ子会社の北朝鮮指導者を描いたコメディー映画にどこやらが上映をすると、当然の報いとしてテロの対象となるというインターネットを通じた脅しが国際問題化し、アメリカが北朝鮮をテロ支援国家と再指定すると対抗措置を取るが如く、事実関係についてあれこれ報道されている。

ソニーアメリカ子会社のデータはもとより社員のメールなども根こそぎ盗まれているという話もある。
アメリカは日本などとは較べられないほどこういうシステムのセキュリティーレベルは高かったはずだが、それでも北朝鮮という地理的環境から僅かな回線の経由でこういう事ができるとなれば、日本などやりたい放題、そういう事になるのだろうか。

私はまだインターネットが一般に馴染みのない頃、ワークステーションのシステムマネージャーとして色々なことをやっていたが、当時、既にTCP/IPでインターネットが構築され、日本に欧州からアクセスも可能だったので、セキュリティーと言うほどの物でもない当時は、下手な仕事の履歴が残らないように、そういう本末転倒の事も留意していた。

だが、残念ながら私は下流のこと(応用関係)を主にやっていたので今回のような上流の話にはあまり知見がない。特にワークステーションをやっていたという事で今さらパソコンレベルなどシステムを知るというよりは道具として使えればいい、その程度で現在に至っているので、今やパソコン音痴の部類に入るのではないだろうか。

したがって、あまり急速なOSやシステムの向上があるとついていけなくなる。
という事で、セキュリティーに頼るべく、メールもパソコンとしてのセキュリティーだけでなく他のセキュリティーをかけているのだが、最近、訳のわからないメールが増えた。

セキュリティーでは弾いてくれないのだが、その中に、発信元がFBIというものがあった。
え? なんでFBIから問い合わせが来るの? そう思う。
うっかり反応しないように、すぐに削除したので内容もよくは読んでいないが、アフリカにある荷物か何かを私のものかと問い合わせて、返信を要求する類でご丁寧に住所や担当者の名前まであった。

まさか、正規のFBIからの問い合わせだとは思わないので削除が妥当として、個人的見解で削除したが、システムに異常があるからとか、不具合が発生したから下記にアクセスしろとか、まあ、この年末にかけて怒濤の如くおかしなメールが舞い込んでくる。

電話による詐欺の対象にはなりそうもない我が家だが、我が家の家計など知らない連中からは詐欺紛いで攻撃する対象にインターネットという仮想空間ならばなり得るという事だろうか。

それにしても浅ましい人間が増えたというか、よくまあこれだけ存在する、そう思うのだが、自身の得点稼ぎに警官までが人を罪に落としたりする世の中だから、これも当たり前の事なのだろうか。

電話が恐い?! [社会]

たった数軒先に当地で知り合った、母の、地区の友人が住んでいる。
私が車で外出に連れて行けなくなってから、母の足腰がめっきり衰えてしまって、たった数軒先であるのに、母には思うように訪問できない。

相手の方も御主人が亡くなられてから、外出の機会が減ったのか、あるいはお付き合いが偏ったか、同じ地区の友人方とのお付き合いもかなり減っているようで、近況さえ聞こえてこない。

そこで、たまに母の方から電話をするのだが、これが滅多に電話口に出ない。

やっと、電話で話をすることができたとかで、久し振りに顔を見にと、母が出かけていって、その電話に出ない事情もやっと聞いてきた。曰く”電話が恐い”

年寄り一人の家と分かって電話をしてくるのがいて、色々、脅してくるのだという。それが暴力団とか、土地のヤクザ、チンピラの類ではなく、一般の商売人に近い連中、つまり騙せるとか、脅したら金を取れる、そう分かった途端に恐喝してくるような、そういう商売人が多く、そういう恐い目に何度も遭っているので、日中の電話には出ないのだという。

確かに我が家にも電話が掛かってきて、それを耳の遠い母が取って、聞き取れないので、私に回してくる。しかし、相手は電話の最初から私がとって相手が言った事を聞いていると思って話をするから、意味がわからない。

「要件は何ですか?」そう聞くと
「今言ったでしょ」そう言って、長い前置きの話をしてくるので
「用件を聞いているのに内容が分からない」そう言うと、
「もう二回も言いましたよ。今度が三度目です。もう言いませんよ」そう言って、また長たらしい話をしてくる。

話している内容は分からないが、目的は自分のところの電話に乗り換えろ、そういう事なので、間に合っている、そう言って、途中でガチャン、そうやる。

これはインターネットの電話回線の売り込みの話だが、とにかく、要領を得ない話を毎回、それもこちらが今、手が離せるか離せないかも確認せずに一方的に時間を取る。
自分から勝手に電話をしてきて、もうこれ以上、言いませんよ、などと状況判断もできない連中が営業しているのだから、顧客という感覚もないだろう。

自然、そういう態度がお年寄りには強く出るので脅迫紛いの電話も多くなるのだと思う。
電話口を通してなので、この私にも失礼な脅し紛いの電話をしてきたのもいるし、だいたいなんだろうかと思うものが多い。

しかし、これなどはまだいい方で、リノベーション紛いの、何もしないどころか、逆に家を壊すようなことをやって法外な金を取る業者からの電話も多い。我が家にも一時期、ひっきりなしにその類の業者が、電話をしてきたが、今は、信用のできる業者に外観で必要がないようにしてもらったおかげで回数は減ったが、それでも月に一本は来るだろうか。

電話でなく、訪問で来る業者もいるので、お年寄りには本当に恐怖だろうと思う。一度など、絵に描いたように「市役所の方から来ました」そう言って配管などチェックしたいから床下を見させてくれと言った作業服の人物もいた。

「市役所の方って、どの辺? 市役所から来た、そう言わなかったよね? 会社名は?」そう言ったら、年寄りが出てくると思っていたところへ、変な顔のおっさんが出てきて面食らった上に、マニュアル通りというかマニュアル対策通りの詰問をされて慌てて、玄関から逃げていった人物がいたが、これなど可愛い方なのだと思う。

私が一人住まいをしていたときは、電話は全て留守電にしていたので、出たい人や出なければならない相手だけ電話に出るという事ができたが、我が家は相手もお年寄りという電話がけっこう多いので、留守録にはせずに直接電話に出る。という事で、不快な電話に出ることも多いのだが、その不快な電話を掛ける人達は自分の親や祖父母が同じような目にあっても平気でいられるだろうか。

ヘイトスピーチ [社会]

私がここで書いている外国絡みのもののいくつかはヘイトスピーチに類するものになるかも知れない。
国連などでは、人種、民族、宗教などでの不要な差別を廃止するように、そういう事が行われている国に対して勧告が行われているようだが、日本もそういう勧告の対象国らしい。

という事で日本でも国連の勧告に即した取り締まりが行われる方に政府の姿勢が変わりつつある。
だが、何でもかんでも取り締まって良いという事でもないと思うが、こういうところの役人のセンスの無さも問題のような気がする。

私もここで、サウジアラビア人、と言ってよいのかわからないが、とんでもないふざけた人物達の腹立たしい所業について書いたが、そういうものは多くの人に知ってもらった方がいいと思っている。

韓国人にしたって、悪い事は悪い、という事でそれを指摘することは悪い事ではないと思う。
要は、ついでとばかりにある事ない事誹謗中傷の類で、決めつけしてしまうことだと思うが、その辺で、最近の日本人というものに関して、私は寛容性がなくなってきたように思う。

このブログで口を極めて裁判官を始めとする検察、警察を罵っている私が、天に唾しているような話だが、私が非難しているこの馬鹿連中は、物事の道理もわきまえないくせに人の上に立つ存在と自らを高見に置いているからその根本のところで批判しているだけであって、そもそもと言うところを理解していない人物が増えた、そういう事なのだが、少しわかりにくかったかな?

正しい認識 [社会]

世の中には思い込みや間違った指導によるおかしな事が多いと思うが、しかし、間違いだとして、新たに与えられた情報が間違っていたという事もあり、なかなか物事を正しく認識するという事は難しいことなのだと思う。

実は、私は正しく指導を受けてスポーツでの試合に臨んだという事がない。
学校体育で担任から体育の授業で課業として簡単な事は教わったことがあると思うが、本格的な試合などを意識して、というものがない。

例えば、ウォーミングアップについては、社会人になってからも殆どやったことがなかった。つまりスポーツに関して医学的見地からの視点というものが全くない人間だった。
いや、これも、トラウマがあっての事なのだが。

中学生の時、校内陸上大会なるものがあり、学年毎にクラス対抗で陸上の色々な種目で競うものがあった。私も中学生としては長距離に入る種目のクラス代表として出場したのだが、厳しい練習に耐える体力があったのに、所属運動部の上級生と喧嘩してとっくの昔に退部し、その時は帰宅部なるもので、全く運動なるものをしていない時だった。

そして、その種目に参加する時も、ウォーミングアップを全くせずに、いきなり他のクラスの選手と全力走をしてしまった。途中で酸欠状態になって、やっとこさ20人中の19番目でゴールしたが、正直死ぬのではないかというほどの頭痛で後が大変であった。

そしてそれがトラウマで、正式にウォーミングアップを教える先輩もコーチもいない中、少しでもスタミナを温存しようと、高校から本格的に始めたスポーツでも試合前に、ウォーミングアップをしたことがなかった。つまり全くの静の状態からいきなり運動量としてトップの状態に持っていくのだから、心臓の負担も大変なものだっただろうと思う。ウォーミングアップをちゃんとやると別名スタミナお化けという名が付くほどのものだったのだが。

草野球でも然り。今、大変な右肩痛で悩まされているが、それは過去の無理な運動が祟っての事なのだろうと思う。かろうじてスキーだけは我流が固まらないうちにスキー教室に入ったおかげで、ゲレンデに着いたら必ず準備運動をするようになっていたので、全く怪我というものには無縁だったが、そういう昔の事を思いだすにつけたいしたものだと思うのはイチローである。

人よりも早く球場入りして人よりも入念に準備運動して、体を最善の状態にして試合に臨む、ということをしているが、スポーツは筋肉だけの問題ではなく、頭脳も一流でないと一流にはなれない、そのいい例だろうか。いや、どれだけ準備しても結果が出ることは少ないので、結果を出せる努力も必要という事か。

我々の時代は練習で大量の汗を流しても、水を飲むな、そのように先輩に言われて、忠実に守っていたが、そういう人間から見ると”ずるい”という行為で、頭から水道の水を被る振りをして水を飲んでいる奴がいたが、実は今から思えばそれが正解なのであって、飲むな、と言っていた方が理不尽だったわけである。

そのように、殆ど知識がない中でスポーツをしてきたというのが我々の時代なので、我々やその我々から教えられた精神論で鍛えるコーチ、監督が、未だに大勢いるのではないかと思うと、不幸な選手はまだまだ大勢いるんだろうなと思う。

さて、安倍君。前回のトラウマで、おかしな事に過激に突っ込んでいなければと思うのだが、前回盛んに口走っていた美しい国日本、という言葉。今は、全く口にしなくなったが、しかし、政策の傾向を見ると前回とは変わっていないような…。

たまたま長い閉塞感のある経済分野から入ってはいるが、政策の中身は保守本流や右翼の人達でさえ危惧する懐古調。誰がどのように安倍君に吹き込んだか知らないが、正しい民主主義の認識と、戦争に突っ込んで行った背景の認識をしてもらいたいと思う。

私が個人として自分のスポーツでの大成できなかった原因を振り返るのとは違って、国民全体に影響が、それも不幸をもたらす内容が隠されているとしたら、何をか況んやである。

あくまで主役は国民だという事、忘れまじ。

裁判費用は被告人の負担とする!? [社会]

驕りきった司法関係者、気の短い私は、彼らを馬鹿者共と、つい呼んでしまうが、その彼らによる全く科学的根拠のない判決によって私は犯罪者の汚名を着せられてしまった。

私が科学的根拠を元に長い裁判を闘ったのだが、それに対して、検察側と裁判所は全く、科学的根拠のない話を元に訴追と有罪判決を下した。

すなわち、口頭による証言というもので、証言は、証人という第三者を法廷に呼んで証言させることを表している。

例えば、証言が小学校下級学年の子供によってされたらどうだろうか。
証言をした人物は検察官に伴われて出廷している。当然、検察官により吹き込まれて検察側に有利な証言をする事が想像できる。

そして想像通り、証人は、科学的根拠のない話と嘘の証言をしている。その話の内容は、実際に物証があるので、それら証言が嘘だとわかるものである。

証言内容は科学的根拠がないので小学校下級学年の子供が言う内容と変わらない。ところが具体的に言っているから信用できる、これが裁判官の言い分である。

しかし、小学校下級学年の格好をしていないので、内容に重み付けをしようと思えばできる。裁判官という人種はこれを単に利用しているに過ぎない。

また別の証人はわざわざ、事実と異なる構図を描いて嘘の結論を導く手助けをしている。

こういうものが、裁判に負けたある日、訴訟費用として請求が来る。わざわざ1円の単位まで請求額が入っている。ただし、訴訟費用という名目と金額だけである。

ん? おかしくないか?
電話して聞いてみた。
民間企業では請求が一括のようなものは通用しないし、もしそれで通用するような企業はお互いに長く存在しきれない。

明細は出さないという。しかし請求する側としては、やはりおかしい。国民奉仕のサービス業のはずだ。どうしてこうもサービス業ということ忘れたものが多いのか。
そして個人が関わるので個人の情報を守る立場からも出せない、そう言うのだ。

しかし、今時、1円の単位まで請求があるというのは何だろうか、そう疑問を感じるではないか。
証人に対する支払い費用が発生すると言うなら、交通費と日当だろう。どちらも最低10円単位ではないか。
やはり明細を見たい、そう思う。

検察といえども裏金疑惑から逃れていない組織なのだから、やはり請求する立場としてはちゃんと明細を添付するべきではないだろうか。

そして、私を嵌めるために出てきた証人への支払いというのもおかしい。何故なら受益者負担が原則であり、私はこの場合、受益者ではない。もっとも、私が闘わなければ発生しない費用ということになるかもしれない。しかし、これは国民に等しく与えられた権利であり、負けたからと検察側が証人として呼んだ人物の、それもこちらに不利な、さらに言えば嘘を言うような人物への支払いに充当させるというのはどういうものだろうか。

何故なら、検察官とは、本来、そのような余計な費用の発生を伴わない能力を持っていることが前提でその職務を担当している筈であるからだが、私の見方は厳しいだろうか。
しかし、民間企業ではとてももらえないような生涯賃金を国民の血税から得るのだから、やっぱり考え方がおかしいんじゃないだろうか。

その職務に能う、という事で役人としての職を国民から負託されている人間が、新たに自分たちの言い分を通すために証人を呼ぶというなら、それは検察官自身のポケットマネーで賄えばいい。しかし、それはしない、明細は見せない。ないない尽くし。

今でも、これで通している日本の司法の世界。特定秘密保護法が通ると執行機関である司法役人はもっと驕った職務態度になるのではないのか。しかし、裁判所も含めてまともに明細ひとつ見せられない国の役所に国民に対しての存在意義があるのだろうか。

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