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一片の曇りも許されないこと [社会]

私がサラリーマンとして仕事をしていた時、いい加減な仕事をしているなあ、そう感じることは多かった。だが、これは私ではなく周囲や取引先の仕事ぶりについての感想だ。たまに、そこまでやらなくても、と思うようなしつこくやる人物もいたが、そういう人物に限って的外れという事だったり。

私の知る人物の中で、そのしつこい仕事ぶりをする年長者がいたが、基本中の基本をその人物がやっていたので、これは周囲が悪く言うことではなく、むしろそういう人物が社内にいること、会社の製品として信頼性が上がる、と評価すべき事だったはずなのだが、評判が悪かった。

評判が悪いというのは、社内にその仕事に対しての理解がなかった、そういう事になるのだが、まあ、そんな事、分かるような輩がそこには私以外にはいなかった、それがその会社の将来を暗示していたのだが、案の定、私が見通した結果に繋がった、私はそう見ている。

さて、そのような話が民間企業の中であるならば、業績不振程度の自業自得で終わるかも知れない。だが、宗教の世界でお坊さんがいい加減なことを言ったり、本人が確信に欠けることをしたら非難されるのではないだろうか。見えない世界に関することは、それを伝える人の絶対的確信が必要なようである。

これが警官であったらどうだろうか。これも逮捕や送検あるいは処理に自身で疑問があったとしたらどうだろうか。それでも、やって良い事だろうか。相手のないことであれば、害がない、そういう事もあるかも知れない。しかし、相手のある場合、その対象者やその家族や友人達には大変なことになる。

警官にはどうもこういう大事な事に対する認識が薄いのではなく欠けているようである。だから平気で人を罪に落とすのだが、もっとひどいものがある。

以前のブログにも書いたが、物理のぶの字も知らないくせに知ったかぶりをして運動エネルギーが40000ジュール以上あるから衝突エネルギーも40000ジュール以上などと、そうではない前提の構図を認識している上で小学生並みの事を判決文に書いた裁判官がいるのだが、事実関係を知らない皆さんはあまり理解できないだろう。

だが、以下の説明付きならどうだろうか。
車がある速度で自己移動している時に運動エネルギーという物理量を出す場合、速度や質量に依存する運動エネルギーの算出式に数値を嵌め込むと結果の数値が出てくる。この運動エネルギーが40000ジュールだとして、衝突エネルギーが40000ジュールという数値になるにはこの自己移動している車が瞬時に速度がゼロになるほどの衝突があった場合、つまり運動エネルギーの40000ジュール全てが変換されて衝突エネルギー40000ジュールになった、そう言えるのだ。

これは時速30キロで走行してきた車が例えば地下駐車場の大きなコンクリートの柱とかあるいは一般の道路際の電柱等にぶつかってその柱のところに止まった場合に、持っていた運動エネルギーが全て衝突エネルギーに変換された、そのように言えるものだ。

だが、車の前部に大きな損傷どころか打痕すらないものが、人が乗った自転車を撥ねたと訴追していて、車が一瞬にして止まってもいない、その事故構図を認定した上で、上記のようなことを裁判官は言うのだ。どこの世界に人の乗った自転車と衝突した1トンを越す車が衝突した地点で瞬時に止まる構図があるだろうか。

こんなものは一点の曇りもないどころの話ではなく、それこそ、勝手な話を持ち出すだけで罪悪であり、こういう話を持ち出した本人こそ刑務所に入るべきものである。

また、例えば、時速35キロで人の乗った自転車に車をぶつけてその乗員をボンネット上に撥ね上げて等という内容の警察調書。裁判官は時速は30キロと認定する、そう言っている。裁判官は被告人を嘘を言う姑息な人物と認定しているのだが、そういう姑息な人間が事故について実際の速度よりも大きな数値の車速を言うだろうか。当然姑息な人物であれば、罪を逃れるあるいは軽くなろうと自身の責任を小さくあるいは無くすために過少申告するので、まさか時速30キロの車速だったら、時速20キロとかそう言うのではないだろうか。

心理学の専門家と称して、心理面での話になると弁護士や心理学の専門家等には決して解釈の面で譲らないという裁判官にして、この馬鹿馬鹿しさなのである。
さて、もっと馬鹿馬鹿しいのが、ボンネットに跳ね上げてという調書内容である。

裁判の過程でボンネット上に跳ね上げてなどという事実認定は検察も裁判所もできていない。そりゃそうだろう。僅かにボンネット上に残る条痕(あくまで条痕であり人がぶつかったような面上の凹み痕の欠片もない)を自転車籠の底部による傷などと強弁し続けた手前、他に傷がなければ、さすがの嘘つき検察でも、言いようがない。

つまり調書の内容と物証に整合性がない。これっておかしい、一般人ならそう思うだろう。何故ならば警察調書は、事案に関して捜査して事実となる事を元に作成されるものであり、事実と整合しない調書など認められるはずはないのだ。もし、事実でないものでも調書として認めれば、これは幾らでもでっち上げができる、即ち捏造でも何でもありで冤罪の山となる。

ところがそういう常識的な基礎部分でも裁判所は平気で間違いを犯す。
事実と整合しない調書を認めてはいけない、その基本中の基本すら理解できない人間が何故、裁判官などという職業に就けるのだろうか。

裁判というものは人の生活や将来までもそしてその家族、友人の運命さえも変えてしまう大変なものであるのに、裁判官の出す判決は一片の曇りもないどころか、一つ一つ間違いの山である、これがどうも通常の裁判らしい。

裁判官というと難しい司法試験を通って司法修習生としても優秀で人格も高潔、その様に思われている人が大半だと思う。

しかし、たった一つの案件で見たって間違いだらけ、それも判決に関わる根幹のところで間違い、人格高潔などとはほど遠い、自身の保身優先で無実の人間でもあくまで罪に落としてやろうなどと言う栗田健一他のような人物がやっているのだから、とんでもないことなのだが、彼らにはここで書いた意味合いでさえ理解できないと思う。

所詮、上だけ見て暗記優先で学業してきたおつむには、本来の裁判の意義も意味合いもわかっていないだろう。
だが、裁判の判決には一片の曇りも許されない、そういう性質のものであること裁判官達が理解し実践しなければならないものなのだ。自覚できるだろうか。
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