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改めて。情けは人の為ならず。 [社会]

以前のブログにも“情けは人の為ならず”と書いたが、貴乃花問題を絡めて改めて。

育った環境など人には色々あるので、こうでないといけない、などという気はない。ただ、私は四横綱揃い踏みを楽しみにしていた口だったので、それが叶わなくなった腹いせも含めて、独善的にこの問題を述べたい。

外国に出ると文化や生活習慣など全く異なる民族との接触により、誤解も含めて摩擦が生じることは多い。場合によっては命にかかわるようなこともある。
単に移動するだけのタクシーが強盗の場になったり、普通に日本で生活する感覚とは違う国も多い。そういう体験を何度もしていると、日馬富士の暴行問題も、怪我をさせたのは悪いことかもしれないが、私などからすると視点が違ってしまい、モンゴルのような国で育っていたら、あまり細かい事を気にしていたら、厳しい自然の中で生きていけないとか、そういう事になるので、日本人とは、あの程度の暴行への感覚の違いがあるのではないだろうか、貴乃花の執拗な日馬富士の刑事訴追や協会批判などは、かえって現地、モンゴルの人たちには違和感の方ばかり残るのではないか、と思っている。
実は、今から二十数年前、アジア諸国のあちこちで、いわゆるカラオケラウンジというところを利用する機会(ほとんどのケースで自身の遊興というよりは、取引先の人間の遊興の口実として接待される場合が多かった)があって、当時、韓国企業が肩で風を切るようにあちこち荒らしまわっており、カラオケラウンジの女性たちが、彼ら韓国人たちの悪口を言っていた。つまり、ただでさえ粗暴な韓国人が、酒が入ってさらにテンションが上がると、全く、セーブが効かなくなり、力任せに彼女たちホステスを思い切り叩くので、痛いし、あちこち痣ができるのだという。だから韓国人の客が来ると、本当に嫌なので、先に日本人の客が入ってくれると嬉しい(社交辞令もあるとは思う)と言う。
韓国人自身だって、そういう自分たちの風評が、耳に入らないはずはないのだが、遊興の席での粗暴さが収まったとは聞いていない。察するに、その程度は彼ら自身には暴行とか暴力とか、そのような認識の範疇ではないのではないだろうか。モンゴル人のケースはさらにその内容がもう少し過激であっても、事細かく問題にするレベルではないのかもしれない。
もちろん、何針も縫うような怪我をさせた事は決して許される事ではないかもしれない。しかし、貴ノ岩は叩かれて気を失っていたとかいうわけでもなく、(何故、誰も止めないのか、止めてくれないのか、出身校の知り合いもいる満座の中で一方的に叩かれて恥ずかしい)とか体裁を気にする余裕もあったのだ。問うに落ちず語るに落ちるであって、何故、貴乃花が日馬富士の暴行問題を、殊更、暴行された貴ノ岩の症状を重症化させて語ったのか、その意図からして、私には違和感しか覚えなかった。テレビ桟敷でさえ、立ち合いの力士同士の頭同士の当たった音が聞こえてくるのに、手やリモコンなどのおおよそ全体重をかけたとはいいがたいほどの軽い質量のものでの叩き程度が問題になるような力士の育て方をするなら、親方辞めたら? その被害について大げさに騒ぎ過ぎたことは子供でも分かる話だと思う。
もちろん、この見立てに対して異議のある人は大勢いるだろう。それを承知で書いているのだが、この暴行事件で、暴力を振るったという事実があっても一番男だったのは、日馬富士、そういう気がしてならないのだ。私は自分自身が、そうではないと思いながらも、実は、私が同じような暴力に訴えるタイプの人間だからかもしれない、という危惧はあるが。
貴乃花の思惑は別として、ここでの問題は、パワハラの一部であった、そういう事の認識なのだと思う。喧嘩という事ではなく、横綱が言葉にしろ腕力にしろ、下のものに向かって何らか行動を起こせば、逆らう事はできない、そういうものまで地位のある人間は認識しておかなければならない、そういう事だろうか。
そういう意味で、日馬富士が自身の暴行を感情に任せた面は悪いという事になるのだろう。だが、一度は白鵬と言い争いになっても貴ノ岩をかばった日馬富士が、最初から貴ノ岩に悪意を持っていたという事ではないし、また、だからと白鵬を敵対視するわけでもなく、たとえ年下でも優勝回数の多い大横綱である白鵬に対しての礼も示している日馬富士が、自分がそのような礼を示すほどの白鵬に対しての貴ノ岩の態度に思わず感情がむき出しになるほどの怒りを持ったことについて、やったこと自体は悪いとしても、事の良しあしで、対応しようとした、その考え、礼節は悪くはないのではないか、という事である。
結局、事態を刑事事件、さらには日馬富士引退後の相撲協会に残れるかどうかの民事訴訟にまで持ち込まれた日馬富士が、自身の行動を、その後、強く主張できなくなってしまい、被害者及び被害者側という錦の御旗で、貴ノ岩が、全く悪くない、あるいは何の落ち度もない、そういう事になってしまったが、、その辺は、貴乃花はずるい、そういう事になる。刑事訴追に持ち込めば、事の発端、経緯がどうあれ、手を出した方が悪い、そういう事になってしまうので、それならば、いい加減な事を言ったり口から出まかせで、摩擦の生じることを起こした本人は、ほくそ笑む、そういうものになってしまうだろう。今回の事案も結局、日馬富士を引退に持ち込んだ、その事、その意図の裏に隠された政治的思惑が、貴乃花のいやらしさを表していると思えてならない。
自身が巡業部長であるならば、興行の成功や、入りなど気になる筈だと思う。協会員としても横綱が協会の看板である事、熟知していなければならないところ、逆に自身が、その横綱を引退に追い込むどころか刑事訴追という汚点にもっていくのだから、何をか況やなのである。
禍根や恨みを残さないようにするならば、まずは、しっかりと貴ノ岩から事情を聴取し、相手方の日馬富士、伊勢ケ浜親方と話し合って、事実関係を糺して、双方が納得しそれが相撲協会の考えに沿うようにしてこそ、再発防止策、あるいは今後の相撲協会の発展につながっていく、そういう事だろうし、それだけの度量を見せることが自身の考えに賛同する親方を増やし、自分の考える方向への相撲協会のかじ取りに繋がっていくのではないか、と思う。個人バッシングではないが、貴乃花親方を買っていた北の湖は理事長時代、テレビカメラに笑顔を向けることはほぼ皆無であり、各種問題発覚後でも事情説明どころかぶすっとした顔をファンに向ける事しかせず、ほとんど改革らしきものを見せたことがなかった。そういう理事長に買われていた貴乃花が“改革”と言っても一般の人には全く内容が分からない。
話を戻すが、情けをかけることは、相手の為にならない、などというものではなく、その情け自体が回りまわって自分にも戻ってくることもある、すなわち、情けのある社会こそが、弱者にやさしい社会であると思うのだがどうなのだろうか。
私など、このブログで偉そうにしかも過激に色々攻撃しているが、生きていること自体で相当の業を積んでしまっている事、自身では認識しているつもりである。だいたい、他の命を引き換えに我々は生きているのだから、それを考えればできるだけ業を積まないよう、情けを掛けられるものにはできるだけ掛ける、それが自分自身生きやすい社会のもとになる、そういう事ではないだろうか。
協会の看板を屠ったくせに、自分のところで暴行問題が起きたら、弟子を相撲が取れないようにはしないでくれとか、色々、言っていたが、暴行問題での日馬富士やその親方の苦悩をどう見たのか。ダブルスタンダードを自身がやっては、相撲道なるもの、全く説得力に欠けるというものである。
結局、北の湖理事長の次は自分だと思っていた、その貴乃花がそのまま理事長にならなくてよかった、それが日馬富士暴行問題以降の世間の認識になってしまったのではないだろうか。
まあ、人間はそういう失敗から色々学ぶというものだと思うが、生きている限り日々、業を重ねている事を意識していれば、情けは人の為ならずという事も理解でき、ダブルスタンダードとか自分の時だけ勝手な事を言ったりしたりする、と陰口をたたかれることもなくなる。つまり失敗で学ぶという事であってさえ、取り返しのつかないようなところまではいかない、そういう事になると思う。
今回はからずも、自身が思惑を押し通す事をやった、その口実の出来事が災難として貴乃花自身に降りかかったわけだが、我々市民はそういう事を気に掛けながら日々生きているものだと思う。八角理事長も相撲協会も今回大人の対応をしたと思うが、“情け”のない仕事ぶりをしている役人の社会が、やがて日本のいい文化を失くして不毛の社会を作ろうとしていはしまいか、それが気になっている。いや、私自身も、情けが仇となって、自身いわれのない罪に落とされたのだが、周囲から、情けが仇となった、この国では、情けは通用しない、そう言われ、嫌な社会をくそ官僚たちが作っているなあ、そう感じている次第。

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