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公私混同 [報道]

都知事が週末に自身の別荘への往復で公用車を使用していることの是非で別荘を含めてその往復の途上も公務であると、問題ないことを主張している。

人によっては都内でなく神奈川県、それもすぐ隣が静岡県という、そのような場所に防災責任者である都知事が週末毎に行くこと自体問題だ、としている。

まあ人間の数だけ意見はあるだろうが、日本の首都の知事としての格とか体面がどうだとか、そういう事で航空機のファーストクラス搭乗が当然だとか、スイートルームあるいは会議室付きだとか、それが当然のごときホテル宿泊だとか、こういうのは庶民感覚とは合わないのではないだろうか。

まあ、私なりの行政というものに関する考え方で言えば、私に行政を任せていただければ、皆さんには、こういうものを提供したい、そのように訴えた内容によって行政というもの選挙民に付託されれば、選挙民との契約を守る範囲において、どれだけ贅沢しようが関係ない、そう言えるのだが、まあ、私ほどの能力を備えた人物などそうそういないだろうから、どう贅沢しようが俺の勝手などとほざいてもらいたくはない、これが現在の都知事の行状に対しての正直な感想である。

公人となればなるほど李下に冠を正さず、であり、公私混同を疑われるようなことは厳に慎まなければならない。ところが何を勘違いしたのか現都知事は自らの職務内容が高尚であるかのような論理で公私混同を正当化しているのだが、このあたり、単なる俗人でしかない。

私が冤罪で留置されていた時、李下に冠‥で、同乗していた母親を留置場には呼ばなかった。私は事実しか述べていないが、口裏合わせなど疑われる行為をしなかった、そういうことである。

対して、栗田健一を始めとした裁判官たちはどうしたか。他に類を見ない不当な拘束命令を出し続け、その間、警察、検察はでっち上げをしていたのだが、彼らには都知事と同じように民に主権があるという感覚がなく、自分たちこそが選ばれた人間であるという庶民を見下した感覚しかない。

彼らの立場で言えば李下に冠を正さずとは、疑われるようなことをしない事、すなわち、自分たちは聖域にいるから、何でもあり、どうにでもしようがある、などと当事者たちから疑われるような状況を作らない事である。

しかるに、裁判官たちは彼らが間違った判決を下しても、何の責任も負わない、そのような裁判当事者からすれば理不尽な中で神であるかのような傲岸さをもって判決を下している。有罪の人間を無罪にしても、それが実害がなければ、その責任を問うほどのこともないかもしれない。実際には被害者が存在したとき、被害者側は納得できないだろうが。

だが、無実であるのに、そのおつむの低さゆえの、勝手な理屈による理不尽な判決で無実の人間を有罪とした場合、その責任を問われないということ自体、おかしなことではないだろうか。

裁判官にとっては、李下に冠を正さず、すなわち自身の出世や保身のために検察や行政にすり寄っている、そのように疑われることなのだが、なんと、そういう事が現実の裁判では多いだろうか。

かれらのおつむの中には自分たちが庶民とは違う、つまり特別の待遇が与えられるべき、そういう考えが流れている。
日本人にはいまだに特有のお上が偉い、そういう感覚があるようだ。

もちろん庶民の側がそういう感覚であっても行政を負託される側がお前たち庶民とは俺は違うんだぞ、そういうものをもっていては、その時点で公務員としては失格なのだが、もし、お前たちとは違うんだ、そのように私のような感覚を持つならば、そのプライドを見せる場は贅沢三昧をすることではなく、余人をもって代えがたいという実績を見せることではないだろうか。

自分たちは聖域に身を置いて偉そうに嘯く裁判官たちと同様、行政マンの長もどうしてこうも意識の低い連中ばかりが目につくのだろうか。

家族帯同で宿泊したホテルのその宿泊した部屋で政治がらみの話を身分を明かせない人たちとしたから政治資金規正法に会議費として出費することが問題ないなどというのはまさしく驕り以外の何ものでもないし、こういう公私混同をする人間こそが、政治を庶民から遠ざけているのではないだろうか。

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