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日本の裁判所に大岡裁きはできない! [所感]

大岡越前を題材にしたテレビドラマは何度も放映されているが、今もNHKで新しい配役の元、配信されている。

時代劇ファンになる年齢に、とっくに達しているという事と、推理ドラマというと、みょうに殺人ばかりが劇中で行われる今のドラマには食傷気味の自分としては、ほっとする内容でもあることから、大岡越前は優先的に見るドラマ、そういう事になるだろうか。

残念ながら、内容に関しては単に楽しめる、そういう事ではなく、冤罪に陥れられた自分の事を絡めてついつい見てしまう自分がいる事を意識しながら、さて、こういう大岡裁き、本当に事実だっただろうかとか、今の裁判所で有り得るだろうか、そういう目で見てしまうのだ。

皆さんは、裁判所、真実を暴いて正直者が馬鹿を見るようなこともなく、人命が地球よりも重い、そういうヒューマニズムに即した組織あるいは機関、そのように思っているだろうか。

実は、私も自身が不当な逮捕あるいは拘束されるという事態を経験するまで、冤罪などは本当に一部の話で、裁判官というものは真摯に事案に取り組み人を信じる事をベースに業務に勤しんでいる、そう思っていたのだ。

確かに、足利事件の再審請求、それもDNA鑑定などたいした労力もいらないものを門前払いし続けたりあるいは放置し続けた池本寿美子以下の女性裁判官のような、どうしようもない人物達もいたが、本当にそういう不心得者は一部だと信じていた。

しかし、現実に法廷に引き出されてみると、いや、その前から何年も留置課にいるという警官でさえ、経験がないと言うほど不当な拘束をされ続けたり、法廷での暴言や恣意的指揮などおおよそ世間一般では考えられない、いや世間では通らない法廷指揮と世間的常識とはかけ離れた法廷指揮が行われたのだ。

ここには性善説などという、人間としての良心の欠片もない法廷指揮しか行われていない。目立つのは人間性の悪さである。
ただただ、ひたすら罪に落とそう、あるいは悪い印象ばかりを法廷で目立たせよう、そういうものしかない。

法廷で出てくるものは証拠と言えるようなものではなくただただ、印象として悪役を決定づける論でしかなく、証拠というものも少しでも冷静に見れば嘘で塗り固めたでっち上げだと分かるようなものばかりである。しかし、証人として出てくる警官、目撃者、そして悪人を印象づけようとする検察官。まさに四面楚歌で自身でさえ、本当は俺は悪者ではないのか、そう思ってしまいたくなるほどのものである。

四面楚歌は、前述のものに裁判官を努めた栗田健一までもが罠を嵌めて、言質を取ろうとする、こういう状況から、私自身が裁判での法廷で実際に感じたものだが、ここには正義の欠片もなかった。

大岡越前は、史実に遠山の金さんのエピソードなどを加えた作り物という事だが、元ネタにはちゃんと史実などが入っている。つまり封建時代の大岡越前の裁きの方がより性善説、それも当たり前の事だが、不必要に咎人を作らず、いい社会を作っていく、その為のお白洲、そういうものが伝わって来る。

日本の検察官や裁判官には大きな裁量権があるという。しかし、それらは社会とか容疑者(起訴されれば被告)をいかにいい形で社会に戻すかとかそういう精神はなく、単に検察官、裁判官の権威を示す道具としてしか使われない。

とにかく、逮捕された人間を、人間としては見ずに、屑と呼んだり、罵倒したり、いったいこの連中は自分たちを何様と思っているのだろうか、そういうものしか感じ取れない連中なのだ。
大岡裁きを”見事”とか”溜飲が下がる”という日本人がこういう裁判所の実態を放置している事に疑問を感じてならない。

まあ、史実に残るような人物と栗田健一のような屑とでは比較にもなるまいが、しかし、偉そうにしていた最高裁の面々なども、屑でしかない事、皆さんは知っておく義務がある。

性悪説

人間性の悪さ
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