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刑事事件における調書なるもの。 [司法]

TBSテレビドラマの刑事専門弁護士99,9などでも語られる調書なるもの、本当に警察とか検察とかのねつ造が分かってしまうものなのだが、どうしてこれを裁判所が偏重するのかわからない。

まあ、経験したものにしかわからないと思うが、しかし、星の数ほどの事件の結果が、調書偏重とは、どれだけ裁判所のレベルが低いのかと、改めて、日本の司法の稚拙さを感じてしまうものだ。

例えば、刑事訴追の対象となる可能性のある事案が発生するとする。通常、まずこれの捜査に携わるのが警察であり、警官なのだが、調べ書きという感覚であれば、担当警官がその調書を書く。
通常、容疑者本人から事情を聴いて調べ書きとするのが、自供調書なるものだが、こんなもの、警官が勝手に書いて、容疑者本人に「ここにサインしろ」、そう言って調書の体裁を整えた程度のものが本人自供調書として裁判所に証拠提出される。

通常、調書の末尾には調書作成した担当警官が調書の内容を読み上げて容疑者本人に聞かせて、容疑者本人に、サインをさせる、そのような手続きになるし、また、調書にも本人に読み聞かせ、そう書いてあるのだが、実際には私の事案でも私の調書も、私に不利な内容をいかにも母親本人が語ったかのように担当警官がでっち上げて(何故、そういう事ができるかと言えば、警察署など全く縁のない人間が、調書などとも知らされずに、勝手に警官が書いたものを、老眼でしかも耳の遠い高齢者であることを利用して調書末尾にサインさせることなど本当にたやすく、私が3ヵ月もの不当な拘留の後、家に戻って、色々、警察や検察のでっち上げたものについて調べていった過程で、母親の調書がでっち上げられたものだと発覚したのだが、その時まで母親自身が、調書など取られた事さえも自覚していなかった。ただ単に、私が警察が訴追するような行動をとっていない事や普段からまじめで慎重な行動をとる人間であることを訴えに行った、それをサインを求められてただ、単に自分の名前を書いた、そういう認識であった。つまり誰もが簡単に警官の仕掛ける罠にはまる構図が今の警察の取り調べには存在してる。)サイン入りの調書を取っている。だが、担当警官は内容の読み聞かせなどせずに、ここにサインをしろ、そう言ってサインをさせている。
私の場合、二度目に調書を作成した時に、内容が事実に反する、そのように言っても、作成者は警官なので、修正に応じない。調書作成中に弁護士が来ても、この調書にサインするまで会わせない(そんな権利などないはずだが)、そのような手を使う。こういう事、弁護士が抗議しても、犯罪構成要因を変えるほどにはならないと高をくくっている節があり、警官自体がおかしなことをしてしまう。

これには検察の姿勢がある。検察には起訴に関して大きな裁量が与えられている、という事からでっち上げてでも起訴する、そういうものが、調書作成にも反映するのだ。だからしっかりした手続きとかあるいは本来の目的などすっ飛んでしまった調書が出来上がってしまう。
事件や事故の時に、担当警官が捜査しなくて誰が捜査するの? 事実に符合しない調書を調書として法廷に出すなど、技術者として長年やってきた私にはとても信じられない事だ。
企業の中では、ビジネス上、あるいは製品のトラブルがあった場合、「関係者に話を聞いた結果、こういう事でした」だけでは済まない。

つまり経理上の処理が必要な損失あるいは費用計上の際、その根拠となるものなしには、勝手な処理はできない。製品の事故の場合は、さらに再発防止策など講じる必要があり、事実を科学的に解明した上での再発防止策が必要であり、事実と符合しない調書など、調書と言えないどころかでっち上げ、あるいはねつ造という事になり、社会的に影響のある製品やビジネスであった場合、社会から批判を浴びて、企業として社会的制裁を受ける。

そういう意味では警察調書、検察調書は事実あるいは物証との符号のないものばかりで占められており、そこに裁判所あるいは判決が言及せずに平気で有罪を出すことの意味が分からない。
有罪は、そういう判決を出す裁判官たちの方(無実の人間を罪に落とすことは単に怠慢という言葉では済まされない重大な法律違反があり、その事によって失われる命や自由などを奪われたことに対する重大な違反行為は重要な刑罰を与えるに値するものである)であり、また、そういう事実と符合もしない調書を作成する警官、検察官たちであり、こういう事を糺していない日本の司法制度による有罪判決は、毀棄しなければならない。

調書とは、事実との照合をもとにしながら関係者から供述を取るものであり、事実と符合しないものが証拠採用される今の裁判は茶番でしかない。

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真剣に考えてほしい事 [司法]

今、政府が通そうとしている法案。
以前から何度も名前を変えたり、色々手段を講じて通そうとしてきたものだ。

その都度、猛烈な反対にあって廃案になってきたもの、それが何故、今、通ろうとしているのか。

もう、何度も書いているから、またかと思われる御仁も多いだろうが、私の事案、真剣に考えてほしい。

前方にいる(前方横断歩道横断中、と検察はしている。そんな事はなかったのだが)自転車乗車の人間に対してわき見をした私が制動操作を講じることなく自車右前部を衝突させて、自転車もろとも乗員を前方に跳ね飛ばした(7.1m前方へ)、と起訴されて、最終的にこの事が否定されることなく、最高裁で上告棄却の上、有罪確定となっている。

どこの世界に前方にいる相手に対して車の右側をぶつけられる人間がいるのか?
科学的に全くあり得ない、こんなことで人を罪に落としていいのか?

交通事故というと、あんたにも落ち度があったんだろうとか、相手が自転車であんたが車なら、罪に問われるのは当然だとか、多くの人は、内容など関心なく、一般的な構図に当てはめて、罪をひっかぶったって、たいしたことはない、などと見てしまう。

理系出身者の友人でさえ、漫然と裁判を見ていたくらいだから、多くの人は内容を把握することなどしないだろう。つまり、ひとたび、罪に問われれば、被告人という立場に置かれた人物は圧倒的不利な環境下で、ひたすら我が身の無実を訴えなければならない。

さて、科学的に、検察の嘘を暴いてさえ、罪に落とされてしまうのだから、今、政府が通そうとしている法律、通ってしまったら、どうなるのか?

何ら具体的な事実なしに、おおよそ印象だけで有罪に落とされてしまう。
これ、戦前の治安維持法そっくりだ、そういう話が以前からあったのに、今、そういう危惧さえも出てこない。一部、マスコミの人間が騒いでいるが、それが国民全般に伝わらない。

そりゃそうだろう。マスコミ自体がふだんからジャーナリズムとかジャーナリストたる自分たちの行動主張を国民全般に真剣に受け止めてもらえる行動をしてこなかった、その報いが、今、こういう形で表れている。

面白くもない能無し芸人たちの内輪話に終始する多くのテレビ番組や、一部の芸能事務所に魂を売ったかのようなテレビ・新聞の報道ばかりでは、まじめな話が国民に受け止められるわけがない。

まじめな話をしようとすると、「面倒くさい」その一言で話を遮られたり、「面倒くさい人」という形容で敬遠される社会では、必要な事が社会で語られない。結果、一部の人間を利するものばかりが社会でまかり通ってしまう。

今回の法案、戦後、何度も廃案となったり、通過させてこなかった先人たちの、経験からくる危機感を、今、私たちは台無しにしようとしている。つまり、無知無能を我々世代は実証しているわけだが、毎年3000人を輩出するという東大を頂点とした学歴社会が、社会の進化に貢献しないどころか、今まで積み重ねた文化までも壊していく事、わかる人がどれだけいるのだろうか。

弁護士会 [司法]

弁護士会は、皆さんにはあまり馴染のない組織かと思う。

私自身も弁護士会どころか弁護士ともほとんど接触のなかった人間だからだが。
ほとんどと書いたのは、会社で働いていた時に、部下の一人を解雇しないで済む方法について弁護士会の当番弁護士に相談した事が一度あったから、ということだからだが。

しかし、安いとは言え有償の相談で弁護士は全く他人事。相談してよかったどころか、こんな連中に払う金が無駄、そういう思いを強くした。

だが、刑事事件は違う、というよりは、弁護士なしで初めての刑事訴追を乗り切れるほどこちらに知識はないし、刑事裁判のイロハもわからないどころかこちらが拘束されていては、何もできない。

という事で弁護士を頼ったが、彼らの矜持とはこんなものか、そう思う結果だった。

もちろん裁判官という連中が箸にも棒にもかからないような屑連中である、それが故に、弁護士でもどうにもならない事があるのは確かだが、弁護士の裁量や姿勢としてについては、彼ら自身の問題だと思う。

もちろん、頑張ってやってくれた弁護士もいるので、全てについて否定する話ではない。
だが、強姦罪で訴えられている被告人の弁護士が、訴えを取り下げないと(親告罪だからこそ、こういう行為も有効なのだろうか)、写真をばらまくと脅したり、事実の見極め能力がなく、事実と思えない事でも執拗に高額の訴訟を起こしてきたり、あるいは、その事、弁護士ならば、アリだという弁護士。

以前にも書いたが、弁護士法には社会正義の実現をうたう文言が書かれている。

社会正義とは社会ルールに反したり公序良俗に反する事をしない、そういう事だと思うが、私だったら、おかしな話を持ち込まれたら、あなたに非がある、そう諭して訴訟をやめさせると思うし、膨大な成功報酬などあてにしない。

ところが社会派などとうたっている弁護士事務所がこういう事を行うのだから、何をかいわんや。

私事だが、私の刑事訴追の弁護をしてくれた弁護士が弁護士会を頼ってみたらどうか、そう言ってくれて、弁護士会に連絡し、判断に足る資料を送ったのだが、全くなしのつぶて。

まあ、人権侵害などこの国には法的に問題のある事が一般社会だけでなく、司法の社会にも山ほどある、そういう事かもしれないが、前述のような弁護士の活動を許している弁護士会という事を考えると、単に、私たちはこういう活動をしています、そういう表看板だけであって、実質の活動はないのかもしれない。

とにかく、弁護士という連中の信用度は私の中ではほぼ、ゼロに近い。

相変わらずのお手柄?!警察、検察、裁判所! [司法]

まあ、私は民意の低い中国とか中国人があまり好きではないので日本人が加害者、中国人が被害者、そういうケースを取り上げたくはないのだが、しかし、例え悪人であっても法を犯していなければ逮捕も拘束もしてはいけないし、ましてや中国人が嫌いだからと罪に落としていいなどと言うものではない、それが法治国家というもののはずだが‥。

一昨年一月、東京八王子で起きた傷害事件で、警視庁八王子署が今年三月、現場で目撃したとする証言などから逮捕、東京地検立川支部が起訴した人物二人(いずれも中国人)について、事件とは無関係だったとして、この21日に起訴取り消しが行われた。

起訴取り消しが行われた背景は、裁判の中で弁護側が犯人が逃げる際に乗ったとされるタクシーのドライブレコーダーに映っていた人物が二人とは別人であることを指摘してのものだが、警察も検察もこの証拠の確認を怠っていた。

この事案、決して稀有の事ではない事、皆さんにもよく知って欲しいと思う。
刑事事案では逮捕、起訴されたら99,9%が有罪になる、これが日本の刑事裁判の実情だ。

それだけ起訴という事には真剣に向き合ってほしい、それが冤罪被害者の訴えなのだが、そんな事、冤罪を起こしても自身が訴追されない警官、検察官、裁判官には屁でもない、これが問題。

今回の事案、弁護士がドライブレコーダーの映像を確認しなければ、確実に有罪、それも否認事件、すなわち悪質として実刑になったかもしれない。

報道では単に警察、検察のチョンボとしてしか扱われていないが、一人は四ヶ月近く、もう一人は三か月以上、拘束されている。この拘束命令を出すのは裁判所なのだ。つまり無実の人たちを明確な根拠もなく拘束したのは裁判所というわけであり、どうしてこういうこと、頬っ被りできるのか、高い知性と人間性を持つ私にはわからない。

私の分からないことを平気でできる裁判官という連中、私とは対極にいる連中だと思っているのだが、しかし、権力を与えられた分、その責任は重い。昔なら腹切りものではないだろうか。

封建時代とは言え、権力を持つ人間にはそれだけの責任が課されている事、現代人はあまりに知らなさすぎる。いや、自分たちに都合よく職権を振り回している、そういう事か。こういう連中に権力を与えてはいけない。

報道ではすべての情報が開示されているわけではないが、事実把握能力のない司直という意味で私の事案との比較で、検証してみよう。

まず、目撃者というものが登場している。目撃者というもの、警察次第で、毒にも薬にもなる。つまり警察が都合よく利用するものであり、真摯に捜査が行われた場合には信頼性に富むが、いい加減な捜査の場合には冤罪の輩出者に変わる。

結果論から見れば今回の事案では目撃者証言は誤認逮捕の決め手でしかなかった。つまり内容は嘘八百と言ってもいいかもしれない。

私の事案で、栗田健一という裁判官が証言内容は具体的である、として私の有罪の決め手とした。しかし、その証言内容は人間と自転車の合計重量70kgもの物体に車が少なくとも40km/h以上の速度で真正面からぶつかった筈の車の正面にはそのような凹みや変形の痕跡が一切ない。

そのように証言内容と物証が合致していなくても裁判官は、“具体的に証言している”として有罪の決め手とする。つまり目撃者とは単に司直が被疑者を罪に落とす道具として使われる、そういうものだ。

布川事件では目撃者証言が歪曲されている。そういう事(証拠の補強であるならわかるが、証拠のない事案での目撃証言は警察、検察による事実の捻じ曲げにしか使われない)にも裁判官は思いを馳せなければならないところ、警察、検察の言い分は無条件に採用するという、おおよそ国民のための裁判官という立場を忘れてしまう。

次に、何故、三か月以上とか四ヶ月近い拘束が行われるのか。このケース、たまたま弁護士がドライブレコーダーの映像を見て、犯人たちが被疑者達とは別人である事わかったが、弁護士が見落としたり、確認作業を行わなければ、彼らは確実に有罪になっている。

いやいや、そんなことはあるまいと思われる向きもあるかもしれないが、拘束の長さに裁判所の姿勢が表れている。裁判所は頭から有罪と決めてかかっているから、このような長期の拘束を行っている。

罪を認めず、否認するような人物は人間として屑、そういう考えなのだ。つまり裁判を通じてすべての事実が明るみに出る前から懲罰意識という自身の感情で容疑者に対している。裁判官自身が先入観をもって被疑者を見るという、裁判官として一番やってはいけない事をやっている。

これは判決文の中でよく使われる、反省の色がない、その一言で表されるが、やってもいない事を何故、認めろというのか、裁判所の感覚がわからない。これぞ、人質司法、そういう事だ。

前述したように私の事案でも警官が勝手に書いた調書(今晩を越せないかもしれない人間を助ける気はないのか、そのように医療費の裏付けを私の任意保険で対応してやれ、すなわち、この調書にサインしろ、そういうわけで、警官が勝手にシナリオを作って調書を作成する)と物証は全く合致していない。そりゃ、事実を捻じ曲げるのだから物証と一致するわけがない。

調書と物証が合致していないのに、その調書を証拠採用する裁判官とはどういう人種だろうか、そう思いませんかね、皆さん。足利事件、布川事件など冤罪で共通するのは、調書内容と証拠に合致するところがなくても裁判官が全く疑問を持たない。

物証と合致しない調書を証拠採用するなら裁判官などいらないし、そういう調書を作成するなら取り調べも必要ないし、だいたい捜査の専門家など不要だと思うのだが、こういう根本的な事、裁判官がわかっていないから、今回のようなことが起こる。

今回は、長期の拘束があったことは不幸だったが、誰でもできるドライブレコーダー映像の確認という、基本的作業を弁護士ができたのが幸運だった、そういう事だと思う。

弁護士だから、などという事はない証拠に、犯罪捜査の専門家であるはずの警察も検察も確認していなかったことを見てもわかる。弁護士だから、無罪にできたなどというのは楽観的観測でしかない。

ドライブレコーダーなどの客観的証拠の確認は捜査のイロハのイ、と当該検察官上司は言っているが、そんな事、やっていないから冤罪は数多く生じている。裁判の中で指摘された、つまり、いきなり出てきた話であったために検察が対応できなかった、というのが今回の事案であると思うが、仮に検察サイドで途中で気づいても、それは蓋をして強引に有罪の請求をする、これが検察だ。

今回が、そのようなケースであったかはわからないが、検察が発見した場合は、そのまま起訴を続けるし、弁護側が発見した場合、検察にとって運が悪かった、そういう事か、いきなりでごまかしきれなかった、そういうケースか。

だが、留意してほしいことは、裁判所が無実の人間を不当に長期拘束していた、そういう事であり、裁判所がこういう事に関して反省を見せたことがない。裁判所の信頼、などというケチな話でなく、国民のための裁判所である事を理解できないものは去れ、そういう精神が裁判所にないことが問題なのだ。

裁判官の悪意 [司法]

今、マスコミで元プロ野球選手の違法薬物所持と使用、そして小学6年生女子児童の殺害容疑の被告について、色々、その経過や、身柄の取り扱い等、報じられている。

警察の逮捕から留置、取り調べなどその時々で報じられるのだが、その報道内容について、司法に関わりのある、例えば元裁判官であるとか、元刑事であるとか、そういう人達がコメントを出して、どういう処遇が行われるのか等を私の経験に照らし合わせて見ている。

通常、凶悪犯罪でなければ起訴時点で保釈が認められるとか。仮にそれで保釈が認められなくても公判が始まれば保釈が認められるのが通常だという。

では、私の場合、どうだったか。私は過失傷害罪としての起訴である。上記司法関係者の話の内容からすれば、起訴されたら、証拠隠滅されるべきものも警察が押収しているのだから、保釈が認められて然るべきである。

当時の私の弁護士は、私が外部とは接触できなかったためによく知りもしない身内が最初の弁護士を解任しての後任の弁護士だったが、私の意向など無視して、裁判になったら闘うべき材料、すなわち手の内まで暴露して、勝手に保釈申請した。だが結果は、却下された。踏んだり蹴ったりである。

「一回は却下されても二回目には許可が下りるから気落ちしない方がいい」とは所轄の留置管理課員(警察官)の話である。保釈は早く下りて欲しい、だが、かと言って裏切りとも言うべき弁護士の行為にも腹が立った。この時点での被告人に対しての拘束は裁判官の意向で決まる。

つまり裁判官が何を判断して拘束し続けるのか、疑問を感じたし、かと言ってこの業界の慣わしの一端なのかも分からない。

結局、裏切り行為までした弁護士曰く、「手の打ちようがない」
そこまで弁護士に言わせるほどの事なのか、不思議でしょうがなかった。弁護士としては、そういう状況であるのを自分の手腕で保釈を勝ち取った、そういう構図を作りたい、そういう事であったかも知れない。

私は、初公判を留置場から出廷したので、資料さえ持たせてもらえていない。持っていたのは起訴内容を事実と異なるという意見書としての紙っペら一枚。つまり法廷で弁護士が何やらやっていても何をやっているのか全く分からない。

結局、この時に、担当弁護士がとんでもない裏切り行為をしたのが、最後まで尾を引いたのだが、検察が出してきた全ての調書類を証拠として認める、そうやったらしいのだ。”らしい”というのは、私に弁護士から差し入れられた資料には刑事訴訟記録なるタイトルはあっても甲だの乙だの書類を区分するものもその番号も何もない。

そういうものを法廷でああだこうだ、目の前でやられても甲が何か乙が何か、そんな事、わかりもしない。結局、甲だ乙だという記号付きの書面が私にも来始めたのは弁護士を別の事務所に切り替えてからだが、その弁護士達に聞いて初めて、全ての検察提出の書面が証拠同意となっている事知ったのだ。

さて、話を戻すが、初公判の後、その裏切り行為をした弁護士はまたしても私に断り無しに、保釈申請をした。前述の司法関係者のテレビでの話によれば初公判の後は、だいたい保釈は認められるというのだが、私に無断で申請された保釈申請はこの時も却下された。

弁護士の独断行為は批判されるべきものだが、それは別としても何故、このような悪意のあることを裁判官達はし続けたのだろうか。

通常ならば、許可が下りると言うべき初公判後の保釈申請が却下された後、申請した弁護士は高裁に抗告をしたのだが、これもまた私に断りも無しの独断である。

何故、こうもこの弁護士が保釈という事に拘ったのか、不思議でしょうがなかったが、私の住所地域では保釈料の5%が弁護士の収入になるのだという、これを当て込んだのではないか、これが後任の弁護士の談だが、私もそう思う。

さて、高裁が出した結論は、保釈許可。あくまで反対し続けた検察が、この時、これに対して抗告すらしなかったので、検察側の嫌がらせ、すなわち悪意であった事は、間違いない。

しかし、私が検察官で、保釈申請に反対し続けるほどの悪党が被告人であるなら、「とんでもない」として保釈許可の取り消し申請をするが、単に嫌がらせで行っていた検察は、そこまでするものではないと判断したのだろう。だが、こういう行動一つにも今の検察の傲りが現れているというものである。

人一人、無実の人間を拘束し続け、送検書類の内容の検証の一つもしないで、とにかく犯人に仕立て上げようという行動しか取らなかったのが、私を担当した検察官だ。

さて、保釈許可という決裁が為されても、そのまま保釈されるわけではない。保釈金を積まなければならない。これは裁判官がその金額を決めると言うが、この保釈金についてもテレビでは、司法関係者がこういうケースではいくら、などと言っている。

一般には私のようなケースで重くても200万円。通常は150万から200万円だそうだ。私の場合は高裁の裁判官の決定だから彼らに悪意があった、とは言えない。だが、保釈許可の下り続けなかった被告人という背景から金額は決まっているので、金額には地裁の嫌がらせが反映されている。

私の場合、保釈金は300万円。逃げたりトラブルがなければ返ってくる金、そう思われるかも知れないが、私のいる地域ではこの5%が弁護士の手数料になる。つまり裁判官の悪意が直接的に懐に響いてくるのだ。しかも私の場合、親の介護のために早期退職して、そんなまとまった金を捻出するのは大変なのだ。

どうだろうか、こういう悪意のある事をするのが裁判官の役割なのだろうか。

悪意と決めつける根拠は、いわゆる世間相場から見て、最後まで保釈許可を出さずに拘束し続けた姿勢と、結局それが、保釈金に反映する事、及び世間的な相場よりも高額になってはね返っている事。

裁判官が正義とか人情とか、そういうものに近いどころかむしろ一般人よりもかけ離れた性悪説、それも自分たちは神の如く考えて、悪い事をする人間はどうせ屑なのだという、言わば虫けらを見るが如き態度しか出せないような人物達が、その多数を占めている事、皆さんにはよく知って欲しいと思う。

私から見れば一番頭の悪い、勘違い人間が裁判官という、もっとも着いてはいけない類の人種がその職位に着いている事が社会に多くの不幸をもたらしている、そう思う。

裁判で納得する人が少なく、怨む人物が多いのも頷けるというものだ。結局、彼らは、裁判官という職種の性格を理解できずに単に自分たちの優位性を見せる職種だと思っている、低能の勘違い人間なのだが、どうしてこう、馬鹿が裁判官には多いのか、社会の歪みのせい、等と他に転嫁する気にはならない。

警察は信用できないどころか恐ろしい組織。一度解体せねば! [司法]

鹿児島県警が強姦罪で逮捕送検していた被疑者、既に1年以上の拘置が行われていたという事、その人物についてDNA鑑定が行われての控訴審無罪判決が出たのだが、いや、単なるDNA鑑定とは言えないおどろおどろしいものが出てきている。

警察官というもの、私の裁判でも証人として出てきたが、警官の証言が嘘である証拠写真を警察自身が提出しているにもかかわらず、平気で嘘をつき、それを裁判長である栗田健一が、信用できる警官の証言だからと、認めたが、あまりに常識外れである。

警官の破廉恥犯罪など常態化しているし栃木県警の警官など自身の行為で殺人を誘発している。いや埼玉県警では警官自身が殺人を犯しているし、どうしょうもない人種というのは今や世間に知れ渡っているものと裁判所自体が認識せねばならない。

とにかくDNA鑑定となれば、科学的鑑定として全面的に信用できるものとなる、そう見られるだろうが、とんでもない落とし穴があること皆さん、ご存知だろうか。特に今の裁判官の素養ではむしろ冤罪を決定的に生む、そういうものであること、知らなければならない。

新聞紙上で冤罪としてのこの記事が出ていた時、被害者とされる女性の胸部の着衣から被疑者の唾液が検出された(DNA鑑定)となっていたが、以下の事を考えると疑問が湧くのだ。つまり他の部位の着衣からは検出されていない、さらには精液が少量であったためにDNA鑑定はできなかった、という内容が同時に記載されていたのだが、強姦という性質からして胸部の着衣のみから加害者の唾液が検出された、というのはいかにも不自然、として誰しも疑問の湧くところではないだろうか。

さらには、被害者の着衣から加害者の唾液が検出されるような状況でも加害者が、自身の無実を訴えて裁判をし続けるというのも腑に落ちないのである。つまり自身が潔白であってさえ、世間的に聞こえの悪い行動があった場合、被告人となった人物は、身から出た錆という観点で、諦めの心境が起こり、甘んじて不名誉な審判を受ける、そういうものがある。

この事案では、物証が決め手とはとうてい言えない状況であったにもかかわらず、一審は被害者女性の証言が具体的で信用できる(こういう内容のないものに頼る事自体裁判官の資質が貧弱であることの証明であり、私の事案でも自称目撃者という人物が、科学的には有り得ない事象を述べたことを具体的に述べており信用できるなどと裁判長を務めた栗田健一は述べたが、全く子供騙しの判決でしかない。こういうものを有罪の決め手とする稚拙な行為はもう止めなければならない)という今の裁判の典型の口上でいわゆる状況証拠にもならないものを状況証拠として、被疑者に実刑判決を下している。

被疑者の唾液が被害者胸部(衣類?)に付着していた、という割にはそれ以外の部位からは全く検出されていないこと、精液からすらDNAを決定づけられなかった、という事実。これらに恣意的なものを感じない裁判官など裁判に携わる資質に欠けるというものだ。直ちに職を辞するべし。

だからこそ、この事件が冤罪となってしまったのだが、控訴審で数々の検察側、鹿児島県警の、有罪の根拠となる証拠類が紛失した等のあまりの杜撰さに裁判長が足利事件の再審無罪を決定づけたDNA鑑定を行った専門家に裁判所として依頼。そうしたら全く別人のDNAが出てきたとか、その別人とされる人物のDNAが複数箇所から検出された割には、被疑者のDNAが、件の箇所以外からは全く検出されなかったという事実。

しかし、例え一箇所からでも被疑者のDNAが検出されれば被疑者と被害者女性が接触した事は否定できない。すると、実は合意の上だったのかとか、いわゆる性交渉はあったという示唆から、グレーゾーン上の事件ではないか、そう思わせてしまうだろう。あるいはやっぱり厳しく罪に問おうとか。

被疑者本人は事件当時泥酔していて全く覚えがない、そういうもの、本人に記憶がないから、と罪に落とす構図も窺えるのだが、もし胸部にでも唾液がついたとするなら、泥酔している人間がたった一箇所のみに唾液がついて終わりなど最終的に強姦に至ったとしたら唾液の付着が一箇所など有り得ようはずもない。

控訴審での裁判長が検察、警察批判をした中には裁判所にも弁護側にも内緒で検察が独自のDNA鑑定依頼をしていた、というものがある。DNA鑑定できるだけの試料としての量が足りなかったなどという鹿児島県警の言い分は、単に都合の悪いものは隠す、そういう意図だったらしいが、検察は意図と反した内容であれば隠し、意図に沿うものがあれば証拠として出す、こういう事だったらしい。

だが、検察の意図など吹っ飛ぶ、DNA鑑定結果が裁判所が依頼した鑑定で出たので、鹿児島県警も検察も上告に至らなかった、という事だ。
私が恐ろしいと書いたのは、精液が検出されたが少量だったのでDNA鑑定はできなかった、という鹿児島県警の話は嘘であり、精液が検出できてDNA鑑定ができないという事はない、ということ。

つまり事実追及ではなくあくまで自分たちの見立て、あるいは作った構図に沿う形で証拠類を操作してしまう現実がある。捜査ではなく操作、これが今の警察の実態なのだ。

そしてもっと恐ろしい事は、逮捕時に容疑者からDNA採取という事で、任意とは言うが現実には強制で綿棒による頬の内側から採取を行う。私も逮捕された時に、別にやましいことは何もないので、協力したのだが、鹿児島の事件では、この被告人の逮捕後のDNA採取の綿棒による被害者女性の着衣への転移が警察の当事者により行われた可能性が高いという事だ。

何故ならば、泥酔に至ったという、被疑者が参加した飲み会という物理的な拘束が生じたものを考えると被疑者と被害者の間に接触が生じた可能性が極めて低い、という信憑性の高いものからすれば、この事案での姑息な警官諸氏の証拠類に対してのあらゆる行動が、でっち上げを物語っているのだが、被疑者本人の唾液というものも逮捕後のDNA鑑定用に綿棒によって採取された唾液が警官によって被害者とされる女性の着衣の胸部に転写された可能性が高いという事だ。

 交通ルールもそうだが、警察の各種の手続きもあらゆる人間の信頼の上に成り立っている。その信頼を覆す事が行われ、また、その信頼性が損なわれていれば、今後、DNA鑑定の結果がどうあれ、警察がDNA鑑定が被疑者が犯人であることを示しているなどと言っても、警官が、被告人から任意として採取した唾液の転写等により被告人を犯人にでっち上げる事ができるので、信用ならない、という事にならないだろうか。

しかし、これは我々一般の国民はそう思うのだが、現実に裁判を取り仕切っている裁判官という人種、警官が言うからその通り、“有罪”こういう決めつけ、変えないだろう。だからこそ恐ろしいのだ。無実の人間を罪に落とす警官の胸に正義の刃を突き立てる、そういうヒーローはゲームの世界だけなのか。

今回、本当に希有の、まじめに審理する裁判官がいたから、被告人ではなくむしろ警官が責められたが、しかし、問題の警官達、鹿児島県警が刑務所に入れるなどという話をしていない。こういう仕事をする人達は、一般人よりも身を律し、刑なども重くする、そういうものではないだろうか。

とにかくこの国の司直は司直と関わった国民の敵である事、よく知っておいた方がいい。

元首相が現首相を提訴した裁判 [司法]

判決が降りた、その要約だけをテレビ報道で聞くだけの判断で言えば、相変わらず裁判所はクソでしかない、そう思う。

安倍晋三が福島原発の原子炉の制御不能の状況における首相官邸と東電のドタバタ騒ぎを、菅直人の余計な干渉が原子炉のメルトダウンという大変なことに繋がる原因を作ったかのような内容のブログを当時、書いていた、その事を事実と著しく異なり、名誉毀損だと訴えた、これを東京地裁は、退けた、というもの。

菅直人の敗訴の理由は、当時の状況から、菅直人が、そういう讒言を受けてもしかたのない状況だった、そういうものらしいが、裁判官の非見識さがここにも出ている。

当時の安倍晋三は野党自民党に属する一国会議員でしかないかも知れないが、少なくとも国会議員であるならば、事実に基づいたコメントを出すべきであり、まして政権を担う可能性のある政党の有力議員であるならば、なおさらである。

しかも東電福島の事故調査で、菅直人ではなく、東電の役員レベルの人間が原子炉冷却に関して海水注入を止めようとした、そこまで話がはっきりしているのだから、安倍晋三が名誉毀損したことははっきりしている。

既に死に体、そして世間で嫌われた菅直人だから。そしてかたや裁判官の人事権に繋がる法相をコントロールできる安倍晋三だからなどと、裁判官が上を見ての判決を出したなどとは言いたくないが、でも多くの人は、この判決を見て、そう思うんじゃないかな。

私からするとまた馬鹿どもが自身をクソであることを証明した、そのようにしか思えないのだが。

裁判官の質 [司法]

多くの国民から反対の声が上がり、国会にもデモがかけられている安保法制。

憲法違反と、自党主張の合憲の声を聞くつもりだった自民党提案の憲法学者からも意に反した内容の話が出て失態を演じた自民党が、それでも学者の意見と政治は違うとごり押しした安保法制。

その安保法制の合憲の根拠の一つとして砂川事件の最高裁判決がある。
しかし、この判決の解釈もそうだが、内容も本当に貧弱というか、国民の税金から報酬を得ている連中の仕事ぶりとは言えない。

契約社会などとアメリカを始め欧州諸国と仕事をする場合、安易な契約を結ぶと問題が起きた時にそれこそ担当者は自身の企業からさえ訴追をされかねないのが民間企業で働くサラリーマンなのだが、その一般のサラリーマンよりもはるかに高給で身分保障も手厚い裁判官連中が、こういう仕事ぶりなのか、そう思う。

三権分立は国民の為に国家として機能する、その最低線のシステムである、私などはそう習っている。裁判所が違憲審査をしなければ誰がやるのか?

あるテレビ番組に出ていた元最高裁調査官だったという裁判官経験者が、裁判官をさして曰く「法衣を着た役人・官僚でしかない」

役人・官僚と言うことは人事権を政府、つまり行政に握られた行政の下に位置する機能、そういう事になる。
何のことはない、自ら裁判所の地位を貶めてきた、これが裁判所なのだ。

たまに下級裁判所で違憲の判決が出ることがある。
立派だと思う、そう言いたいところだが、本音は、違憲の判決が自身の出世に関わらない事案、そういう事だ。

いや、本当にごく稀にしっかり職務をまっとうして違憲判決を出している場合も下級裁判所においてはある。本分なのに、そういう判決を出した人物はその後、出世の道が閉ざされるとかで、ずっとドサ回り。退職する頃には人間としてもいじけてしまって、マスコミ等で堂々と論陣を張ることのできない人物になってしまう。

おかしな組織であり、馬鹿な事だと思う。
こんな組織だったら、潰せばいいと思う。存在するから、人は期待し、機能していると勘違いまでしてしまう。

今どころかだいぶ前でもAI(人工知能)の方が人間の裁判よりもはるかにましな判決を出せるレベルになっている事、皆さんはご存知だろうか。

今の裁判官は、権力の圧力に屈しないように身分保障されている。
しかし、強欲な裁判官諸氏は身分保障では飽き足らないらしい。出世が保証されていないと、正しい判決を下さない、らしい。

我々国民としては行政の暴走・横暴の歯止めの一つ、いや、最後には憲法違反として、この法律を葬ってくれるのが司法だと思っている。ところが裁判所が何を勘違いしているか、身分保障はおかしな判決を下したり冤罪判決を出そうが自分たちは失職しないとばかりに、傲った職務態度を取る拠り所としているのだから何をか況んやであり、この馬鹿裁判官達、今すぐに罷免すべきであり、AIに置きかえるべきである。

AIなどにできはしないなどと勝手に思うなかれ、前例主義の日本の裁判所の判決などAIはもっと忠実にしかも最適なケースを引っ張り出してくるし、前例のないケースで強引に自分たちの権力を振り回す裁判官達と違って、新たなケースでは無理矢理おかしな判決を下す事はない。

人間らしさとか温情などと上から目線で被告人やら当事者達を睥睨して刑期裁量等を自身の権力を誇示する武器にしているおかしな裁判官達よりもAIの方が、公平無私。公平無私であれば今の裁判官達の職務内容であれば他のことは些事ではないだろうか。

とにかく国民のことを最優先で考える事をしない司法であるならば、そして、代替するものがあるならば代えるべきである。長いこと権力に安住し、国民を顧みなかった組織には相応の報いをすべきである。初期投資は掛かるが、監査組織を含めても維持費は現裁判所に掛かる費用とは比較にならないほど安くなるし、それこそ財務状況の改善に大いに貢献すること間違いなし。

弁護士の質 [司法]

裁判に関わって初めて知る日本の司法、と言うところだろうか。

テレビドラマなどで、それこそ、理詰めで論陣を張り勝利を勝ち取っていく弁護士。我が母にして、テレビのようにはいかないのか、そのように、不満を当の弁護士にぶつけても弁護士自身は、(テレビドラマのようにはいかない、と)返す言葉がない、そういう事だったが、「あんたが弁護士になれば良かったわね」これは私の母親の正直な感想である。

確かに、今の私ではテレビのようにはいかないかも知れないが、進路選択を考える若い頃であれば、論陣を張ることでは誰にも負けなかった、そう思うし、正義感も人後に落ちなかった、と思う。しかし、その正義感で考えた時に日本だけでなく司法の世界というものに違和感を覚えていたことも事実であった。

私の場合、メカとか創造性とかいうことで模型の大砲や戦車、地雷とか、武器の知識のない中、自分で色々考案しておもちゃを作ったりしていた、その延長で物作りを志向していたので暗記に頼る現システムの文系には全く興味を覚えなかったのだが。

さて、その私の事案でも、民事で、不当な提訴、そして理由のない賠償金額の値上げなど、ホームページで社会派の弁護士と名乗る割にはおおよそ反社会的提訴をした弁護士。

弁護士会には弁護士活動を通じて社会正義を実現する、そのようにうたっている。
しかし、実態はそのような崇高なものからは遠い。
でありながら社会的地位が高いとして、社会からは一般人よりも高い見識を持つ人物としてみられている。

その弁護士が最近、高齢者や認知症などの成年後見人でありながら、実は管理しなければならない預金等の横領で捕まるケースが増えている。

弁護士など法曹界の人物は特殊なものを手段、対象とした職業の人間なのだが、その職行選択の時の気持ちはどうだったのだろうか、そう思う。

西日本のある弁護士はレイプで訴えられた依頼人の代理人として、その被害者に告訴を取り下げなければ、問題のレイプの場面の映像が世間に出回る、と脅迫としか取れない交渉を行っている。

私の事案で刑事弁護を専門にしていた弁護人でさえ依頼人の利益を最大に考える、これが弁護士の職務、そのように考えていた。
私はまず、社会正義の実現、それが最優先で来るのではないか、そう疑問を呈したが、どうも彼らの頭の中では、それが一番ではないようなのだ。

刑事専門の弁護士にしてこれでは、前述のようなおかしな弁護士が輩出されるのも仕方ない、そういう事なのだろうが、社会あっての弁護士であり、弁護士の職務だからと反社会的行為を正当化するな、これが私の弁護士への姿勢である。

あなたは今の日本で死刑制度が維持されていることどう思いますか? [司法]

前回のブログを見ると、いたるところに誤字脱字、変換ミスがあり、それらを見直す余裕もなく、アップしていたところに現在の私の体調が現れていると思いますが、眼瞼にできているトラブルは一進一退で、今後も誤字脱字の修正の余裕なくアップする可能性があること、御容赦願いたい。

そういう中での死刑執行のニュースがテレビ報道であった。そのこと自体にたいした感慨はないのだが…。
さて、私は現在、刑事での有罪の執行猶予中です。

しかし、罪を問われている事案について私も、そして私の母も私には罪がないどころか、人間として当然の行為である人の命を尊重した行動を取った、そう認識しており、決して人に恥じるものでも人に後ろ指、さされるものでもありません。ですから堂々と生きています。

むしろおかしいのは、私を嵌めた警官であり、検察官であり、裁判官達であること、もし、人民法廷という多数の第三者が立ち会える場面で審判ができるならば、本当の犯罪者達が誰かの証明もできます。証明できるというのは、我々が義務教育やその上の高等教育の初歩レベルで習った内容のものでの証明ができるという事です。

では、何故、そういうものがありながら私は有罪とされたのか?

一つには、緊張感のない仕事ぶりをして、真摯に事案を検証することなく、惰性で私に長期拘束を強いた栗田健一という人物を筆頭とした裁判官達の保身というそれこそ、こういう職業に就いている人間としては情けない、自己保身優先、という行動が基盤にあります。そしてそう言う連中が職務上人を無実の罪に落としても訴追されないという不公平な法体制。

この手の事案としては異例という、保釈請求の却下(地裁レベルで言えば5度の請求をことごとく却下。弁護士レベルで言えば最高裁への特別抗告までしていて、それも却下)がありました。
年間、数万という数字では収まらない交通事故において同様事案で、保釈請求をことごとく却下し続けた、などという話は弁護士も事故鑑定人という職業の人達も聞いたことがない、そういう事でした。

もちろん、私の事案を扱った弁護士や交通事故鑑定人達が全てを把握しているという事ではありませんから、たぶん、どこかにそういう被害者がいると思います。私の事案でさえ、全国区というわけではないのですから、知る人の方が少ない、そう思うし、また、警官や検察官、裁判官達の態度を見れば、たぶん、そういう被害者が他にもいるだろう事は想像がつきます。

裁判の進行や結論をみてもこいつらがこういう事をやるのは初めてではないのではないか、そういう思いがしました。人を拘束し続けている間に、強引に周囲の人間を騙して調書をでっち上げる、本人を騙して罠を嵌める、こんな事は私の事案だけでも両手の指では足りないくらいにあったのです。

一審の裁判官達は、つまり私を凶悪犯並みに処遇した裁判官達にとって、裁判が始まってから、私が無罪でしたでは、下げたくもない頭を下げるか、マスコミ等批判が起こり、それによって昇進の道が閉ざされる、そういう事は受け入れ難い、そういう事だったのでしょう。

彼らにとっては、訴追されるような連中は虫けら同然だから、多少、冤罪気味であったとしても死刑というような人命を断つというほどでもないので、自分達の価値からすれば、こんな事は大したことはない、そういう考えが頭をもたげたでしょう。そして実際彼らは、判決等で被告人である私を煙に巻く事ができる、すなわち、科学的に反論などできはしない、そのようにも考えたようです。

何故ならば、多くの事案で、それで済んできた経験則があるから。そして実際、自分たちで考えても分からないから。
しかし、暗記して必死に司法試験を通過したくらいの頭脳では、こと技術的分野においては裁判官など我々優秀な日本の技術者からすれば赤子同然、そういう事まではあまりに彼ら自身が傲りすぎて分からなかった、という事です。

各所に綻びが出て、それこそ嘘と詭弁で強引に誤魔化して有罪判決を出した、私の事案ではそういう事をしています。この事案の細かい内容については、それこそ小学生でも分かる、私自身はそう思っていました。しかし、優秀に思えた日本人が実はそれほどでもない、ということもわかったので、このブログにアップしても、あまり意味がないので、ここでは載せません。

しかし、以前にも一部、披露したように、数万ジュールの運動エネルギーを持っているから衝突エネルギーがその数万ジュールだ、などと、素人が見ても馬鹿じゃないか、そう分かる馬鹿さ加減、しかも文章として残る判決文に書くくらい馬鹿なのですから裁判官の頭脳など知れています。

しかし、事実と異なる判決を出しても、事実と違うならば高裁や最高裁で事実認定される、であるのに何故、おかしな判決をこの連中は出すのだろうか、そういう疑問が私にはありました。ここで考えて欲しいのは日本は三審制の国だという事です。つまり判決内容が事実を正しく反映していないと思うならば、二審、三審、そのように上級審判を求める事ができる、そのように我々は小学校社会では習いました。

例えば私のケースでは一審で、既に私と利害関係ができてしまい、当事者化してしまった一審の裁判官達が自分たちの保身を優先して私を有罪としても高裁の裁判官達は、私とは利害関係はなく、公平に第三者として内容の審理を尽くせるはずです。

また、仮に高裁で判断を間違えたとしても最高裁では多くの裁判官が審理に加わるはずですから、一人でも事実を理解できれば、それは他の裁判官とその内容を共有できる、即ち誤審の可能性は低い、そう思います。

ところが、私の事案ではこの高裁の審理も科学的検証などそっちのけで、できの悪い高校生レベルの検察側鑑定人を経験、経歴から信用できる、そのような言葉で判決の根拠としただけで何一つ科学的合理性のある内容を出さずに、一審の有罪維持という判決でした。

ん? おかしいんじゃないか?
何故、科学の時代の裁判で、こんな人治紛いの裁判が罷り通るんだ? そう思いました。少しおかしい、なんてものじゃありません。10も20もおかしな事ばかりの内容、それも科学的に全くおかしな話ばかり。

私からすれば物事の何たるかも分からない幼稚園児、それもわがままいっぱいの子供が我を張って、こうだ、そう言い張っているだけの内容に思えます。泣く子と地頭には勝てぬ、そのような鎌倉時代にいたる歴史を習った事がありますが、裁判官達は当時の地頭紛いでしょうか。

当時の地頭とは論理的整合性などお構いなしに無理を通してしまう、そういうことですが、今は、そのような封建の時代ではありません。

先進の法治の国家、それが日本の筈です。
という事で、最高裁に上告したら、裁判官全員一致で上告を棄却、そのように通知してきました。
実は留置されていた時に、当時の弁護士が、地裁支部の裁判官達はおかしい、こんなに保釈が通らないなどという事はないので、最高裁に抗告する、そのように最高裁に抗告という形で出したものも棄却、そのように通知があり、当時の弁護士が保釈請求に関して、「もう打つ手がない」そのように言った経緯があります。

もちろん、私には、抗告の棄却の意味はわかっていました。最高裁が取り扱う事案ではない、そういう門前払いだった、つまり弁護士が背伸びしたけれども、適当にあしらわれた、そういう事です。しかし、結局、その事が、調書類の捏造や長期拘束されるような人物だからおかしな奴に違いないと、事案内容よりも誤った属性等裁判に不利な状況を形作った可能性があります。

しかし、人の一生を左右するような刑事裁判で、この裁判官達、あまりに緊張感がなさ過ぎないでしょうか。
保釈請求に関する話に関しては、彼らの業務範疇ではないという言い分、百歩譲って、それを認めるにしても、高裁判決の内容があまりに低レベルであることでの上告には、私だったら、本当にこれだけおかしな要素がある事案、そう見れば有罪の判決自体おかしい、そういう思いで、余計な罪人を作ってはいけない、そう思うのですが、全員一致で棄却? わかりませんねえ。

私の思うに、最高裁の裁判官は傲りすぎて、自分たちが汗をかくには内容がつまらないから、検討するにも値しない、棄却だ、そのような判断だった、そういう事でしょうか。
この時点で私とは”人間として”違うなあ、そう思います。

もちろん頭脳にしろ人間性にしろ私の方が上だと言っているのですよ。
私だったら、おかしな事が存在する事自体、先進社会で裁判制度というものの意味がなくなると考えて、そういう物を無くす方向に行動しますが、まあ、主権在民すら理解できない裁判官達では、無理というものでしょう。

利害のない事案でさえ、簡単に放置できる裁判官達は主権在民よりも裁判所の権威というものつまり体制の権力維持しか頭にない、そういう事でしょうか。しかしこれって、憲法違反じゃないの? 主権在民を踏みにじり人権を蹂躙してどこが司法なのでしょうか。

こういう人達が裁判を担当しているのです。

私の事案自体は裁判関係者達が軽視する交通事故でしたが、しかし、私を拘束している間に、でっち上げや捏造など警官、検察官達はやりたい放題。そしてこれに裁判官達が加担していたのですから、より重い刑事事件では、そういうことはあり得ない、果たしてそう言えるでしょうか。

私の事案、依頼した弁護士達や事故鑑定人の一部を除いて多くは、私に非がある、そう断定しました。
何故、そう断定するのか?
実際に裁判沙汰に関わっている彼らでさえ、警官や検察官達が作成した調書や資料を全面的に信じて、私の言う事には耳を傾けませんでした。

最後まで私の言う事に耳を傾けなかった弁護士、事故鑑定人もいます。

事実関係さえ見抜く力もないのに、そういう有罪無罪の分かれ目に当たることを材料として出せず、むざむざ無罪の人間を有罪にしてしまう、そういう弁護士も多いとか。

そして真摯に職務に取り組まず、緊張感のない仕事ぶりで無実の人間を有罪にしてしまう裁判官達。

近くでは足利事件、布川事件という冤罪を皆さんは知っているはずです。何故、管家さんや、桜井さん、杉山さんといった人達が無実の罪で刑務所に入らなければならなかったのか?

でっちあげや、捏造した警官、検察官だけではなく、判決を下したのが裁判官達だという事実、皆さんはちゃんと理解していますか? そして裁判所がこういう冤罪に関して、どのような改革、改善を行ったでしょうか。
富山の冤罪では本人が否定し、アリバイまであるのに、そしてそれを確認していてさえ警官は送検し、結局、送検されたら起訴、そして有罪、そのまま刑務所入り。

実際の犯人が犯行を自供して初めて冤罪が露呈したわけですが、それまでは警官も検察官もそして裁判官達でさえ、適正に業務を執行した、そのように自分たちの行為を正当化して、誰一人罪に問われない。

通常の冤罪での裁判官達は、何故、でっち上げをした警官や検察官達に全ての責任を押しつけて頬被りしていられるのでしょうか。間違った判決を出した裁判官達のほとんどは、謝罪すらしないどころか知らぬ顔の半兵衛です。人間としてどうか、そう思います。

厚労省の当時の局長だった村木厚子さん。
この方は私よりも長く拘留されていました。本格的拘留だから拘置所でしょうか。私も拘置所送りの一歩手前、さらには検察官が掛けた罠に嵌っていれば拘置所送りから、裁判での有罪即ち、実刑で確実に1年を超す刑務所暮らしになっていたはずです。

私の場合は、どうかと思う裁判官ばかりでしたから結局、有罪という冤罪を押しつけられてしまいましたが、村木厚子さんのケースは裁判所というより、検察の自滅で、彼女に全く責任のないことが分かりましたが、では、さて、その長期に渡る村木厚子さんの拘束、誰が強いたのでしょうか。そして誰が責任を取ったのでしょうか。

答えは、単純明快。裁判所が拘束を決め、しかし、無実が分かった時に長期の拘束を強いた裁判官達は謝罪しなかったと思います。そのような報道が当時、目につきませんでした。しかし、彼女がラッキーだったのは私のように長期拘束を指示した裁判官達とは公判を担当した裁判官達が異なった事だと思います。いや、この内容については私の知識にはなく弁護士情報です。

さて、私も人に頭を下げるのは嫌いです。ですから、念には念を入れる、そうします。しかし緊張感のない仕事ぶりの裁判官達では上記のように冤罪ばかりではないでしょうか。自分たちでそれが分かっているのに、何ら改革もしないし、謝罪もしない。

ゲスですね。

しかしゲスだと彼らを誹っていても、冤罪被害者は次から次に出てきます。
だったら、まずは死刑を無くすしかないのではないでしょうか。
犯罪、特に重犯罪への抑止力としての死刑制度というもの、果たして本当に意味があるのか。

間違って無実の人間を死刑執行した責任は誰に、どこにあるのでしょうか。
つまりこういう事の追及を避けたいために、裁判所は再審に歯止めを課しています。逆です。

アメリカでDNAを犯罪事実の認定材料として使い出したら、多くの冤罪が判明したとか、そういう話があってさえ、日本の司法は動きが鈍いし、国民も動かない。

そりゃ、家族を殺されたら私も復讐に行きます。相手を撲殺します。
しかし、事情があって殺された場合でも必ず相手側を殺すでしょうか。

我が家は私の妹が、医者から死を覚悟してくれ、そのように言われたほどの歩行者として車に撥ねられた事故の時でさえ、損害賠償請求など考えた事もないし、とにかく助かってよかった、そういう事と、撥ねた人物がその時どういう状況であったか、そういう事にまで配慮してやったほどのお人好しです。

この社会で生きていく以上、マナーもルールもある。そしてそれは皆が納得するものでなければならないのに、今の裁判制度は怨みを残しているのです。

とんでもない交通事故や無差別殺人など近年、犯罪の凶悪化と言われて、それを背景に重罰化が言われ、実際、道路交通法の改正で刑罰が重くなっている。しかし、これらの重罰化は犯罪抑止力になっていない。何故ならば、さらに新たな重罰を考えざるを得ない犯罪が出てくるからであり、実効性が本当にあるのか? という事になる。

私が私自身で検察官や裁判官、そして弁護士や保険会社の人間から聞いた話を総合すれば、刑の重罰化は単に検察官や裁判官達の、自分たちにおもねない奴は重罰にしてやる、という武器にしかなっていない。

はっきり言って、この国の主権者は国民であり、不当に一般市民を罪に落としたりあるいは重罰を与える権利は本来、裁判官達にはないのであって、いや、法律でそういう権利が与えられているなどと言うなかれ、自画自賛で国民不在の法律制定を官僚達がやってきた、そんなもの法の下の平等を詠った、憲法違反であり、そんなもの理解し得ずにおかしな法律に安住しているような人間達が判決を下す裁判など、とうてい信用などできはしない。

これでもまだあなたは、死刑がこの国に存在しても問題ないと思いますか?

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