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類は友を呼ぶ? [日記]

類は友を呼ぶ

さて、今回、私は何を言いたいのでしょうか。
類?
友?
最近の話題の中で友が入るのはカケトモ問題の友、すなわち森友学園でしょうか。

確かに森友学園の理事長であった籠池氏のおかしな懐古調の教育に関してその内容で類として安倍晋三夫妻はあてはまるかもしれません。
まあ、所詮、安倍晋三なんてそんなものですよ。

今回の主役も安倍晋三になりそうですが、類としての人物は籠池氏ではありません。

解釈の違いのようなことを言って平気で約束を破ったり、実質憲法違反(臨時国会の招集について、その義務を果たさずに国会解散をした)等、誠意がないというよりは嘘を平気でつく、そのように誠実な人間であれと躾けられた私などには映る人物が安倍晋三なのだが、ここまで書けばさて、類として挙げられる友とは? おわかりでしょう、アメリカの現大統領ですね。

民主国家にあるまじの大統領ですが、安倍晋三もとても民主国家の行政を負託された人物とは思えない国民に縛りを入れたり、国民を不幸にしていく方向の事しかしていない行政府の長です。

ちょっと見方が違うだろ、そう思いますか?
大山鳴動、鼠も出なかったロシアのプーチンの訪日。覚えていますか。友人として呼んだけれど、さて、金をかけて何が収穫であったのか。単に安倍晋三の友人を呼んだ、それだけ。その友人である、プーチン。

世界が反対しても強引にクリミア併合をやり、その延長線上の軍事的行動はまだ続いています。
トランプもプーチンも安倍も唯我独尊、全体主義的行動を起こし、一部の人たちの利益を図り、国民に縛りをかけていく。

表面上、トランプの受けはいいけれども欧州の先進諸国の首脳は安倍晋三の行動には顔をしかめています。つまり民主主義とか人権とかあるいは世界平和というものからは遠い人物、そのように評されているという事です。

あれ? このように属性を羅列してみると、ぴったり当てはまるのに、大きな国の首脳で、ここに挙げられていない人物がいますね。
そう、習近平です。
あまりに近いので友にはならず、電気イオンのプラス同士あるいはマイナス同士の関係で反発するのでしょうか。しかし、同類であることに間違いはなく、どこかで近づく可能性が無きにしも非ずという事になるのでしょうか。

いずれにしろ国民を置き去りにする行政責任者という事では一致するわけですが、何故こうも進化とは程遠い人物ばかりが大きな国の首脳になるのでしょう。人類に先がない事を示唆しているのかもしれません。


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ぼけ老人のたわ言 [日記]

ぼけ老人の戯言

今の唯我独尊、気配りのない社会、人を尊重する事のない社会を作り、社会を劣化させ続けている政治家たちを見れば、私の方がよっぽどましなどというレベルではなく、“政治とはこういうものだ”そのようにプロと称している政治家たちに本物を見せつけてやりたいと、「私を首相に」そのように本当の政治というものさえわからない連中の冷笑を承知で言い続けてきた私なのだが、持病があり、その持病に対する処方の薬が、効いているのか効いていないのか、わからないままに、最近では、自身のボケを認識し始めている。

つまり、人後に落ちないとか、余人をもって代えがたい政治を行えるなどとは言えないレベルに認知力が落ちてしまっているので、今後は、私を首相になどという発言は慎もうと思っている。だから代わりに、期待できるリーダーに出てきてほしい。

で、話変わるのだが、医者というものは本当に患者の事を思って治療行為を行っているだろうか、という事である。

私がボケを認知しだしたのは、今のクズ医者に掛かってからだが、薬が増えることはあっても減る事はない。

たいていのケースで副作用等、処方薬のマイナス状況は後になってから出てくるので、致命的症状でなければできるだけ人体自身が持つ回復力に委ねたりあるいは、そのための補助薬程度に収めて、それも早期に止める方向にもっていくのが筋ではないか、そう思うのだが、どうだろうか。

先生、先生ともてはやされるからなのか、あるいはもともとそうなのか、傲岸で人の話を聞かずに、少しでも疑問を呈すると声を荒げて一方的に話し出す医者(自信あるいは適切な回答を持たないことの裏返しか)が、残念ながら今、私が掛かっている医者なので、社会のためには早期にこういう人物には医者の世界からお引き取り願いたいと思うのだが、いやいや、そういう医者を排除したら、世の中の医者と称する人物はほとんどいなくなるかも。皆無ではなくほとんどというのは、親切丁寧な医師も知っているし、その医者はいつまでもだらだら通院させるような処置を行っていないので、私なりにいい医者と思っている。だが、開業医の多くは多くの患者が不満を秘めるようなそういう対応、そんなレベルが多いのではないかと思う。

あ、これは一般の開業医の話で、しっかりした病院ともなれば、おかしな医者はいづらくなるらしい。

老母も違う町医者に掛かっているが、通院の度に大量の薬の処方を受けている。これって、患者のためか、医薬両業界のためなのか。

いやいや、ぼけ老人の戯言と聞き流してほしい話だが、これからがもっと思いやられる。たぶん、1年以内にはご飯代わりの薬をたらふく毎日食べて、パソコンも扱えないほどに認知能力が衰えているに違いない。その場合、だれが責任を負ッテくれるのかと言えば、今の社会保障制度では、知らないよ、そういう事になるらしい。

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言い訳 [日記]

“言い訳”は、この私の、総選挙絡みの、見誤った事に対する男らしくない言い訳の話である。
おおおそ、人を見誤った事のない私、と言っても基本的に善人説に立つ(このブログでは辛辣な事ばかり書いているので、そう思われないだろうが、実は、お人好しの裏返しで、辛辣な事を書いている)、その観点で見るので、その点での裏切られることは多い。おおよそ、見立てに狂いのないのは能力査定という点だろうか、などと男らしくない言い訳に終始する今回の情けないブログなのだが。

小池百合子という人物、大物で首相の器があり、国のかじ取りを付託するに足る女性政治家、そのように都知事選を闘う姿を見て、私は思ったのだ。父親が米軍相手の基地闘争での闘士という友人も、都知事選では「今回は私も小池百合子に投票した」そのように語ったものだ。有力な女性政治家が出てくることを、能力があれば喜ばしい事、私は、当時、そのように見た。
さて、以下は総選挙で、落胆した私の作り上げた陰謀説、これをもって総選挙の総括とするものなのだが。


首相を務めるAは、自身や自身の夫人が絡む学校建設問題で大きく支持率を落としたことから、悲願である、憲法改正を自身の手で行うそのタイミングや、環境作りについて、新たな総選挙での自身の与党を大勝させる形というものを探っていた。総選挙は任期切れに近づくにつれて、解散の選択肢が狭まるので、与党の負けを最小にするタイミングが重要だと、Aは考えていたのだ。ここには国民の負託を受けた首相などという考えはない。ただひたすら与党の負けを最小にするタイミングを狙っていたのだが、幸運な事に、最大野党が、自滅の道を辿りつつあり、野党再編がある可能性も出てきたので、野党側の体制が整う前に解散総選挙に打って出るのが、ベスト、そのように結論を出した。野党第一党が自滅気味であっても前回参院選で野党統一候補には苦しめられており、最大野党の党内がまとまる前に解散総選挙に打って出るタイミング、そのように判断したのだ。
 ただ、総選挙という事になると、一挙に野党がまとまって野党統一候補を出してくる恐れがある。それがなれば、かなりの苦戦、それも下野につながる可能性がない事もないほど、あるいは勝ったとしても責任論等で首相の剤にとどまる事さえ危うい。そこでAはもう一手を打つことにした。
野党分断作戦である。Aは国政に強い関心を持つ都知事のKに声をかけて、新党の発足を促した。
ここで行われた密約が
1、野党を分断させる事
2.比例復活を行えないように無所属での立候補を増やす事

これが成れば野党大勝の目はなく、Aは悲願の憲法改正に着手できる事になる。そして憲法改正はKの持論でもあり、異存はなく、さらに言えば、Aは、その代わりにAの後の首相にKを押すことを約束した。Kは現在の職である、都知事職を主催責任者であるオリンピックまで行い、その近辺のタイミングの良い時期にAが画策して衆院の補選を行う、その補選に出て国会議員となった後、Aが首相を辞した後の与党総裁選でKを押す総裁選で首相になる、そういう密約がAとKの間に出来上がり、急ぎAは解散の話を世間にリークし、Kは国政政党を主催する話を出すことになった。
つまりKの人気でKが作る新党に野党の国会議員が乗れば、ちょうど良いタイミングで他の野党からの新党への移籍に制限を設けるという事で、所属先のなくなる大勢の野党議員が路頭に迷う事になり、結局所属先のなくなった野党議員たちは無所属で闘わざるを得なく、選挙資金や比例復活という事でのハンディを負う事になり、当然与党が大勝することになる。
以上の話でAを安倍晋三に、Kを小池百合子に置き換えれば、かくして密約の実行になって、読者諸氏も知る選挙結果になった、そういう事になる。唯一の誤算は、立憲民主党なる政党が、思いの外、早く立ち上がった事、そして意外なほどの支持を集めた、そういう事だろうか。
とまあ、思うようにならなかった総選挙についての私の負け惜しみ解説なのだが、書いた私自身が、こんな事はなかったんだろうな、そう思っている。
何故ならば、安倍にそれだけの頭脳があるとは思えないからだが、昭和30,40年代の自民党ならば、あったかもね、そういうところか。
ちなみに、小池百合子はリベラルを過少評価し過ぎた。自民党の絶対的支持層は最大20%程度であり、保守だけで国政を二分する政党などできはしない。だいたい自由民主党という名を冠した政党にも属していたのに、リベラルを排除などと、何だろうかと思うが、国政を担うならば排除の論理など論外である。右から左まで国民は分布しているのだから、丁寧に国民の負託にこたえる、これが国政に参加する政党の義務であること忘れまじ。

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航空機座席はファースト? エコノミー? [日記]

旅行好きの私、と言ってもあまりに早期に仕事を辞めてしまったので、先立つものがなく、海外どころか国内の旅行も、御無沙汰、そういうところなのだが、そういう私にとっては、海外へのファーストクラスでの渡航など夢のまた夢である。

そういう私の目にある方のブログでのファーストクラスの話が飛び込んできたので、少しばかり書いてみたい、そう思った。

、もう、かなり経つだろうか、航空機の中で、乗務員がエコノミーの客に話しかける場面か何かで、乗務員が乗客のサラリーマン風の人物(小林薫)にどういう用で乗っているのか、尋ねて、仕事と答えられて、え? エコノミーで? と今時仕事での飛行機利用がエコノミーなんて、どれだけ三流の企業なんだろう、というような内容のテレビCMが放映されていたことがあった。

え? 世の中の企業って、エコノミークラスでの出張なんてしないの、そう思ったものだ。私が初めて海外への渡航で利用した飛行機の座席は、自分で手配したのではなかったのでわからなかったが、シャンパンが飲めたりしたので、同行した同僚曰くエグゼクティブクラス(今はこういうクラスはない? ビジネスに統一?)だと言っていた。

海外に出ること自体が初めての事でもあり、色々な事に思いを巡らしていたせいか、座席のクラスなど頓着していなかった、いや考える余裕もなかったので、会社に優待してもらっていた事への感謝などもあまりしていなかったかもしれない。渡航先では通訳もいたり、当時ほとんど英語を話せなかった(いや、今でも不自由しますが)私にはありがたい話で、その後、転職をして後、いかにその当時の会社に大事にしてもらっていたか、感謝の気持ちが足りなかったかもしれない、振り返るとそういう気持ちになる。

ところが飛行機利用回数が少なくても、少し余裕が出てくると、おかしな乗客のいるエコノミーよりはビジネスとかファーストクラスの方がいい、そのような気になりだした。

まあ、親方日の丸、というほどのでかい企業ではないものの、自身の貢献度からすればビジネスくらいは当たり前、そういう気になってくるもので、多忙な中での出張だと、エコノミーから座席が埋まってくるという定説を覆すような時もあり、必然的にビジネスに乗ったり、利用航空会社によってはファーストクラスにも乗れる場合があったり。

しかし、私の場合、飛行機利用で食事を楽しみにする割には、飲み物サービスが始まる前からほとんど寝てしまっていたり、上のクラスのサービスの恩恵などボーディング前の待合室さえも駆け込みのチェックインだったりで利用できず、まあ、エコノミー相応か、自身でそう思うようになっていた。
まだ、務めていた時代にエコノミー利用での出張をしたら「君はビジネスクラスで出張していいのに、それを知らせなくて申し訳ない、次からはちゃんとビジネスを手配するように」そう言われた事があった。
その会社ではマイレッジが貯まり易く、上のクラスに変えて出張している人物などもいたが、私自身は、もうファーストとかビジネスとか面倒くさくなって、社用でもエコノミーでも全く気にもしなくなっていたのだが、そういうものでステータスを感じる人もいればそうでない人もいるのが世の中なので、まあ、航空会社の利益に貢献はしないかもしれないが、こういうもので他人への特権を感じるよりは、他の追随を許さないという余人をもって代えがたい仕事をするという事に集中したい、サラリーマン生活の最後の方では、そう思っていた。
エコノミーと一口に言ってもエコノミーでさえも内容に差があるらしいのだが、飛行機に乗るのは目的ではなく手段の一つであり、楽しいあるいはリラックスできるに越したことはないが、所詮、庶民の一人、分相応に、そういう事だろうか。

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ああ、勘違い [日記]

時間のない中、インターネット接続がままならなくなって、とうとう電話まで不通に。
こういう時、みなさんはどうしていますか?

サポートを受けるにもインターネットは使えないし電話も使えない。まあ普段ほとんど使わない携帯電話があったので、あちこち電話して、何とかトラブルの原因の機器交換で問題は解決しましたが、原因がわかるまでは、自分のパソコンを疑って、あれやこれや。結局、使用状況に支障が出てから解決まで一か月かかってしまいました。

という事で、このブログ記事も書いたのは一ヶ月以上前のものですが…。

昨年、赤いダニの大量発生に悩まされている事、ブログに書いたと思う。

そのダニの発生時期がまたしてもやってきた、そのように、昨年悩まされた奴に今年初めてテラスで出会った時に、思ったのだが…。

こいつはなかなかどうして気を付けていても洗濯物にとりつくので、洗濯物を取り込むときには、表裏、上下と念を入れてチェックして、さらにはらってからでないと家には入れられない。

という事で布団干しやシーツあるいは大物は発生シーズンが終わらないと干せない、

たまたま今年初めて花が咲いたキウイフルーツの木が猫に齧られて、何度かの被害とその対策の後、木肌の修復の為にホームセンターを訪れ、修復剤を探していた時、ホームセンターのパートさんと赤いダニの事で殺虫剤がないだろうか、そういう話になった。

ところが話がどうもかみ合わない。ホームセンターに来る前に車の窓ガラスを雑巾できれいにふき取った時(私は警察検察のでっち上げで漫然と運転して人をはねたと有罪にされたが、車で出かけるときには必ず雑巾で二度ぶきして窓ガラスをきれいにするなど私以上に視界をきれいにして車を運転する警官などいないと信じている。それだけ車の運転には神経を使っている人間なのだ)、になんと、雑巾に真っ赤な奴が10数個引っ付いていたので、車の周囲を点検するとあちこちに赤い奴がつきまくっていたのだ。

という事で、歩き回ってはいないが、車のあちこちに縦になったり横になったり引っ付いている、そういうと、「いえ、動き回っているでしょ、よく見れば足とかも見えるし」そういう話になり、「じゃ、駐車場に来てみてもらえませんか」そのように言って、ホームセンター駐車場の私の車のところに二人で足を運んで見てもらった。

「あら、これなにかしら?」パートさんは見た瞬間、意外な事を言った。
「え? だってこれあちこちにいますよ」

そう、私が恐れていた赤い物体は動かないものだったのだが、パートさんの言うものはよく見れば動きまわっているものとの事。

結局、インターネットでそれらしい言葉をぶち込んでやっと三日目にでてきたものが、”カタバミ”の種。
しかし、車の上やドアなど車体の横、さらには上の方に干してある洗濯物にまで憑りつくなんて、誰が考えます?

しかし、人に危害を与えるものでない事、衣類や寝具に付いても特に問題のない事が分かって、今年は何とか秋口まで大物の天日干しを控える、そういう事はしなくて済みそうなことが分かっただけでも一安心。


続、違和感 [日記]

最近、テレビドラマ、と言っても推理ものだが、そういうものを見ていて感じるもの、いわゆる違和感だが、皆さん感じていないだろうか。

それは、”御遺体”という言葉なのだが、事件などが起きて刑事たちが現場に駆け付けた時に遺体に手を合わせる場面と同時に「御遺体」という言葉が発せられる。また捜査会議の中でも「御遺体」と発せられるのだが、いつからこういう言葉に切り替わったのだろうか。

確か、以前は単に”遺体”としか呼んでいなかったと思うのだが、いや”仏(ほとけ)さん”だったか。
私の言いたいことは”遺体”と呼べ、という事ではない。躯(むくろ)という言い方もあったりで、”御”なるものをつけてこなっかたのが、いきなり”御”が付きだして、これも時代の趨勢なのだろうか。命を大事にする、その先にあるものが”御遺体”なのだろうけれども何か違和感がある。

”御遺体”は葬儀の時の葬儀関係者でもなければ使わなかった言葉だと思うが、昨年暮れ辺りから、鼻につく言葉として感じ出した。

前述のように悪い言葉ではないのに、何故、違和感を感じるのかと言えば、それは警察という、どう見たって人命や人権を大事にしているとは思えない連中が使う言葉としてふさわしくないからなのだ。

現実に使っているから、テレビドラマでも使いだした、そういう事なのだろうか? しかし、いくら徹底しても、警察官の間で、こういうもの、速やかに普及するとも思えないのだが。

警察という組織、無実の人間を平気で罪に落としていてさえ、その有効な改善策を講じるわけでもないし、だいたい悪徳警官が多すぎることを見れば、慇懃無礼につながるような感覚でしかテレビドラマも見られないのは当然だと思う。

さて、同じような感じで受け止められる言葉が、”あざいながまさ”である。
以前にも書いたと思うが、NHKがある日突然、浅井長政の呼称を”あさい”から”あざい”に変えたのもNHKらしい短絡的なものの見方としか思えない。

農産物は”のうさんぶつ”、農作物は”のうさくもつ”、これがNHKを始めとするテレビ放送局の長く続いた読み方だったと思うが、長く頑張っていた高齢のNHKアナウンサーもとうとう時代を受け入れて”のうさくぶつ”そう言いだした。

であるのに、大河ドラマの重さであろうか、時代考証で浅井長政の所領の地名で”あざい”と読むところがある、そういう理由で”あざい”という呼称が浅井長政に対してもつけられてしまった。それまで、多くの俳優、役者という人たちが使ってきたから、というわけではないのにである。

ところが戦国ものの時代劇は昔からあるので、古いものを見ていると”あさいながまさ”である。
”かすかべ”のように同じ呼称でも春日部とか粕壁とか書いたりする例(時代で変わったらしい)もあったり、一つの理由で変えるべきなのか、疑問に思うのだ。

同じNHKの放送で用語について「全く…だいじょうぶ」そのような言葉を肯定的に放送したことがあった。江戸の先人の手紙を例に挙げたわけですが、重複を”ちょうふく”と読まず”じゅうふく”と読む人が正しいかと言えば、間違い、そのように私は学校で習ったのに、今や”ちょうふく”と読む人の方が稀有です。嘘も大勢が言えば真実になる、その典型でしょうか。

間違った言葉を使う人はいつの時代にも大勢いるわけですが、たまたま、その例を引っ張り出して、間違いではないというのも乱暴ではないかと。”全く”という言葉は否定の言葉でしめくくられるもの、そのあとに肯定の言葉を使い、否定の言葉を省力してしまう、そういう全体像を語らずに、NHKは「使っている人がいるからおかしくない」、そう言ったのですが、これも違和感ありです。

全く、(どうしようもない)何を考えているんだろう。この括弧で括った部分が良く省略されるわけですが、いずれ、正論が消えてしまうでしょうか。

あざいは地名であって、人名で使われたという話はないのに、その検証の話は出てきません。人名と地名で異なることは例としてあるのに、なぜそこまで検証しないで決めつけてしまったのか、不思議でしょうがありません。”あさい”で習ってきた人間としては、これを変えるにはこのような拙速でなく、もっとしっかりした根拠のある話で変えてほしいと思いますが、こういうものも力(権力という意味です)のある学者が主張すると、変わってしまうんですかねえ。これが世の中でしょうか、しかし、違和感ありますねえ。

「そこの川は、あざいから歩いて渡れるよ」いやいや、「そこの川はうざいから歩いて渡れるべな」いやはや、なんのこっちゃ。

年頭のご挨拶 [日記]

少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

今年のブログ書初めです。

昨年末、老母が食事のトラブルで寝込んでしまい、いつものトラブルと、回復するのを待っていたところ、深刻な症状に陥り、慌てて、かかりつけの医院に連絡して薬の処方をお願いしたところ、本人の症状を見ないと薬の処方はできないという。

まあ、妥当な回答なのだが、本人は既に飲まず食わずどころか十回近い吐瀉を繰り返しており、歩くどころか起き上がることもできない状態。

年末で多忙な中、束の間、休んでいた身内を呼んで何とか、掛かりつけの医院に連れて行ったが、エコー診断レベルでは手に負えないとの事で、急遽、救急車の手配という事になって、何とか、以前に入院したこともある病院に搬送してもらった。

救急対応という事で、暮れの忙しい中、医師には夜遅くまで内科、外科と診察してもらって、数日の入院の結果、ギリギリ大晦日という時期に退院できる形になったが、結局、年末の大掃除は中途半端で、家の中は、入院に必要なものなど、探し回ったり、逆に入院から、退院で持ち帰ったり、散らかりまわった状態。

例年、何とか大掃除をしている身からすると、この状態は気持ちが悪くてしょうがない。
ギリギリの退院で、老母も家で正月を迎えるという事もあって、慌てて、正月用の食材を購入したり、煮込みや黒豆など作ったり、まあ、これだけ忙しい年末・年始は経験したことがないが、結果として年末に、無事な一年であったと思えればいいのだが、さて、皆さんの年末年始はどうでしたでしょうか。

完全予約制 [日記]

後期高齢者の医療費の特別割引が廃止されるという。医療費の増大は医療を受ける本人だけでなくそれを支える社会保険にとっても重大なものだと思う。
 
 さて、そういう社会背景がある中、車の6ヵ月点検を受けるために販売店のサービスに持っていく2日前に、久しぶりの洗車を行った。久しぶりという事もあって、終わってみると3時間も掛かっていた。

 さて、その翌日、思ったよりも暑かったのだが、水分を補給しなければと思いつつ、結果として水分補給が少なかったのだろう、翌日の朝食後、車をディーラーに持ち込めるように準備をしていて、下腹部に鈍痛を覚えだした。

 これはまずい、そう思ったが、後の祭り。何度も経験したことのある激痛へと変化していったが、車の6ヵ月点検の事もあり、何とか落ち着くところに、そう思って色々と体を動かしてみたが、激痛からは逃れられない。

 結局、若干気温が低い中、油汗と吐き気と下痢気味への対処で、パンツ一丁になってタオルを巻いて頑張ったがもういけない。あちこち体の不調があっても寿命と、達観して医者にかかる気がない事、自ら縛りとしていたのだが、さすがに、この激痛に耐えられずに、以前通院していた医者に、タクシーを呼んで、駆け付けた。

 ところが、である。「当院は完全予約制なので予約がないと受診できません」受付でこう言われた。以前掛かっていた事や、他の医者でなくわざわざそこに来た、そういう事を伝えて割り込む形で2時間後のところに割り込む形で入れてもらったが、痛さには波がある。

 待合室で待っている間に、どうにも耐えられない痛みに襲われて、状況を確認に来た看護師に改めて、早めの受診を頼んだ。「楽になれる姿勢でお待ちください」そう言われて待合室の長椅子に横になった途端に、すっと憑き物が取れたような感覚で楽になり、しばらくして名前を呼ばれて診察してもらったが‥。

「うちは完全予約制なんだから、痛いときにだけ来るな。(カルテを)見れば2008年に来ているが定期的に診察を受けていればこういう事にならない。完全予約制なんだから、自分の都合だけで受診に来るな」とまあ、こういう感じできついことを医師に言われた。

 その時には痛みが治まっていたので「じゃあ、けっこうです」そう言って帰りたかったが、大人げないし、たまたま痛みが和らいでいるだけであって、薬は必須なので処方箋をもらわない事には高いタクシー代を使って行った意味がない。
使用したタクシーの運ちゃん、そして点検をキャンセルしたディーラーの担当者も何度も経験したという腎臓結石。彼らは、注意事項を守って、特に通院しているわけではなく、何度か経験しているという事は、痛くなったら通院する、そういうレベルである。

医院での医師に言われた言葉を老母に話したら、憤慨して早速、他の身内に話して別の医師を探してきた。患者の立場の人間の話を集約すれば、皆、この腎臓結石で定期的に診察を受けている人間などいない、そういう事だったのだが‥。

さて、この病気、医療費の肥大化が問題になっている中で、毎月通って、診察を受けて、薬を処方してもらわないといけない病気なのだろうか。以前、通院していた時の事を思い出したが、検査と称するものを含めて診察と薬代で一回に1万円を軽く越していた。

もちろん、まだ年金などもらえる年齢ではなく母親の介護で仕事も辞めて収入がない中、月一回では済まない医療費が一回1万円を越せば暮らしていけない。たまたま、自分のマンションの内装工事の準備のために三か月以上通院が無理になったために、そのまま通院しなくなったのだが、それから8年、通院しなくても良かった、という結果が残っている。

 他の病気まで否定する気はないが、少なくとも腎臓結石で完全予約制なるシステムに巻き込まれて、毎月通院の義務を課される意味は何だろうか。私の勘繰りは固定客として定常的な収入源の確保がこの完全予約制の意味ではないだろうか、と思う。しかし、社会保険の将来を考えればいや将来ではなく今だって困っているのにこれでいいのだろうか。

 来週の水曜日に急に胃が痛くなりますからその前に予約を取りたいのですが、などというような都合のよい病気ばかりではあるまい。医は算術なり、そう思っている。評判の悪い医師だが、医者としての腕がこちらのニーズを満たせばいい、そういう思いで以前も通っていたが、今回の出来事、あまりいい気はしない。カルテを見れば明らかに私の方が年長である事、医師にもわかっていてさえも、口の利き方が悪かったが、年の話をしなくても対応が悪い、それが母親が感じた医師の素養であった。

Red river valley いやRed valley いやいや赤い谷いや‥ [日記]

小学校? いや中学校だったか赤い河の谷間なるタイトルの歌を習ったと思うのだが、赤い河ならぬ赤い谷間、いや赤い谷、いやいや赤いダニの話をテレビで聞いたのだが、他人事ではなくなってしまった。

 掃除をしているときの別の部屋でのテレビの話だったので、細切れだったがマンションだかの貯水槽に赤いダニが入り込んでいる話、聞くともなしに聞いていたのだが、我が家、外壁の塗装で、家の周囲の清掃ができず、工事が終わるまでと、じっとしていた。

 ところが、飼い猫のブラッシングを外に置いてある椅子の上で夕方にやるのだが、ある時、ブラッシング前にその椅子の上をチェックすると、点々と赤い小さなものが散らばっている。

 そこで他のものをチェックすると、全てのものが同様な状態。100人乗ってもまだ大丈夫なる物置など鉄製なので日差しでとんでもなく熱い。その物置の壁にもいっぱいついているのだから、こいつに弱点はないのだろうか、そう思うのだが、植物にも集っている。

 つまり例外はないくらいにひっついているので、どういう薬剤がいいのか、そういう事も考えなければならないのだが、貯水槽に入り込むくらい今年は大量発生しているという事だろうか。

 不幸中の幸いで、噛みつかれることはないようなのだが、植物の活性液で溺れ死にさせても後から後から湧いてくるので、元を絶たなければならないのだろう。この先、毎年というか年々、連中が増殖してくるかと思うとうんざりするのだが、皆さんのご家庭ではどうしているのだろうか。


信用ができない [日記]

信頼できない、そう言い換えてもいいかもしれない。
 最近、パソコンのトラブルを別とすれば、多忙ながらも何とかブログの更新が軌道に乗りつつあったところで、我が家の外壁塗装工事が始まった。

ガス会社から埋設されているガス管が古いタイプなので新しい素材のガス管に交換してほしい、つまり交換工事の必要がある、そういう知らせでガス会社の方に工事費用の見積もり依頼をした後、外壁塗装をすることになったので、当然、あれやこれや対象部位を省いての工事依頼である。

 以前の私なら、任せっぱなし、そういうところかもしれない。しかし、父親が亡くなって後、母親が私の反対を押し切って某著名建築会社代理店を名乗る業者に騙されて以来、家がらみの業者、その一挙手一投足を監視しなければならないのだ。

 業者の職人からすれば、やりにくい発注主であるかもしれない。しかし、最大限の配慮をしていてさえ、避難させておいた新車を車庫に戻した途端に傷つけられたり、またそれを白を切るなど、どうにも工事関係の人間に特定しなくても信用できない人間の多くなったことか。

 という事で、業者が我が家にきて、工事の段取りをする時点からその日の仕事を終えて帰るまでずっと監視しているのだ。当然、暑い日差しの中、立ちっぱなしなので作業をしている人の方が楽なのではないか、時としてそう思う。

 しかし、屋根に上って瓦を踏み抜いたり、壁をへこませたり、あるいは思わぬものが紛失していたり、プライべートでの発注は、色々な事が起こる。はっきり言って家のメンテナンスがメンテナンスにならない、これが日本の住宅の現状ではないかと思う。

 人が関与すればするほど家が傷む。逆に言えば、できるだけメンテナンスフリーの家を建てることを考えた方が維持費が安くそして家も長持ちする。

 ところで、職人さんの腕とか、段取りとか、そういうもので、“さすが”と思わせる人もいるので、監視のような行為はさぞ不愉快だろう、そう思う気もある。だが、私ならもっと丁寧な仕事をするとか、仕上がりにまずいことの起きないやり方をするとか、そう思ってしまう業者も多いので、これは金を払ったから、あとはしっかり仕事をしてくれればいい、そういう事が通用しない、町の中小業者を相手にするには、必然のことだと自身に言い聞かせて、無事工事が終わるようにと祈る、監視の一日だ。

 元が父親の建てた家なのであまり関心がなかったが、もう相当に傷んでいる。であるから、かえって維持、保守を丁寧にしていかなければならないのだが、今回も元請けが大企業ならではの、きめ細かさのない、一般的な受注に終始していたのだが、結局は、こちらが色々、気を使わなければ大枚はたいてどんどん寿命が短くなる。

工事の監視をしながら上記のこと色々思うのだが、自分たちの懐から出る金なので、当然、それなりのことをしてもらわないといけない、そういうところ、実は税金として支払っている金の方、どうだろうか、そういうところまでつい頭が回ってしまう。

関心を持ってもらわない方がいい、これが行政側かもしれないが、いやいや本当は、税金の使途にもっと関心をもって、行政をよくする方に発言してほしい、これが本来の行政側のあり方であるし、また、そのためにも税金の使途がよく見えるように会計報告がされるべき、そのように思い、またその実績を見せてくれる行政マンが出てこないか、そう思うのである。

 現状がそうなっていないから、やっぱり行政は信頼できない、そう思ってしまう。

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