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懲罰感情 [司法]

処罰感情というのだろうか、タイトルでは敢えて懲罰感情と書いたが、司法関係者が抱くものをそのように表してタイトルにしたが、刑事事件の裁判の判決に不満を持つ向きも多いというか、特に遺族ともなれば重罰を適用して欲しい、そういうものだろう。

私の身内が昔、交通事故に遇ったことがある。横断歩道のないところで道路を渡ろうとして、中央線のところで車が来たために、車が行き過ぎるのを待っていたところ、日が落ちたところだったために対向車のライトに目が眩んだ車が中央線のところに立っていた身内に気づかず、撥ねてしまったという事故で、当然の事ながら、ブレーキも踏めなかった事故なので、身内が相当距離、跳ね上げられて3ヶ月の重傷という事故だった。

知らせを受けて病院に駆けつけた時には、死ぬかも知れないと言われた。大事な身内だったが、私も免許を持ち、車の運転もしていたので、事故の状況を聞いた時、相手への処罰感情など、欠片も持たなかった。確かに身内は立ち止まっていて動いていなかったので、過失として、運転者に相応のものがある。

横断歩道上ではなかったが、中央線上に立って、車が通りすぎるのを待っていたので、通常なら運転者の過失責任は大きい。しかし、運転者だって好きで人をはねないだろう、だから、本来、そういうところに人が立っていると思わないようなところに立っていた身内に責められるところがある、そういう思いの方が強かった。

我が家では助かっただけでも御の字として、損害賠償請求など思いもよらず、実際、一銭ももらわなかった。母の時も同じである。脇道から、優先道路を走行している父親の車に突っ込んできてぶつけられたという事故で、父親は、縁起が悪いと車を買い換えたし、母も治療や後遺症に悩まされているが、治療費も含めて一銭も要求しなかった。

父親に非はなかったが、損害賠償とか、金絡みのもめ事が父親は嫌いだったのである。そういう家庭に育っている私としては、私の訴追されている事案では、相手が勝手に突っ込んできた事故であっても、相手が怪我をしているという事で、損害賠償などという気もなかったし、とにかく、命は大事だからと、救命最優先で対応したつもりであった。

でっち上げをした警官ですら、こちらの責任を問えないと判断した時に、相手の責任を問うか、聞いてきたので、そんな気は毛頭無い、そう答えた。そういう事実がありながら、そして私が強欲でも自己中でもないことは担当警官が分かっているはずであるのに、その後、裁判官の懲罰感情により、私は地裁で保釈許可の出ない被告人になってしまい、さらには裁判で、あくまで有罪にするぞと、裁判長が意思表示する被告人になってしまった。

人には色々考え方があるだろう。事故直後の私の対応を非難する向きも多い。しかし、事実関係を正確に知った上で非難するなら、私を非難するほどだから神の如き対応ができるのだろう、とその人物に一理あるとしてもよい。しかし、批判する人物に、その理由を聞くとたいていは、薄っぺらな内容でただ感情的な論拠で言っているだけである。

そもそも、事故後の対応が悪いからと、事故の原因が全て私が悪いという論拠自体、意味を為さないのだが、法律もあるいは物理的解析能力もない人達が言うならまだしも、専門家であるはずの検察と裁判官が、それをやっているのである。

119番通報を私がしなかったら、不届きとなり、助手席にいた母親を歩かせて病院に行かせたら、人間として恥ずべき行動となる、らしい。

病院に行くことが分かっていて、十数分後には病院に着くことが分かっていて、家を出る時に携帯の電源を落とすことが、おかしいだろうか。一刻を争うと考えた時に、携帯の電源が立ち上がるのを待つのと、すぐ使える携帯を持っている人物に依頼することと、どちらが判断として正しいだろうか。

諸々、でっち上げや、その判断を見ていると、この国はやっぱり、役人天国なのだと思う。勝手に突っ込んできて自爆していても重傷と思えば、誰でも何とか助けようとするだろう。その時に、冷静に状況判断して、平行していくつも処理をすることをやってしまったことが、悪いと責められているのだ。

しかし、私は警官や、検察官、裁判官などのように税金で食ってきた口ではないので、効率的に物事を同時処理する、言わば民間企業では当たり前のことをしただけであるし、人命をおろそかにしたわけではなく、救命を優先する場合、どうしたらいいか、それに基づいて行動した、それを理解できない頭の連中が、こいつには懲罰を与えてやろう、とばかりに無理矢理有罪にしようとしているだけの話である。

日本は法治国家であるはずで人治ではないという根拠であるべき法の番人達がこういう悪意に満ちた事をやるならば、当然のこととして、その報いを受けるべきである。だから私はこの話を発信しているのだが、私の性格からして発信だけで済まないと思う。

弁護士にも言っているが、誰に喧嘩を売ったか、教えてやる、そう言っている。喧嘩するなら頭の悪い役人同士でやれ、そういう事だ。主人筋の国民に悪意を持てば大変なことになることを役人どもに身に染みて教えてやることがこの国と国民を救うことに繋がる、そう思っているが決して私は傲って言っているのではなく、緊張感無くふんぞり返って正義の味方面している検察官、裁判官達への躾だと思っている。
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人間が出来過ぎていると理解されず気味悪がられ排斥されるのは良くある事です
無償奉仕すると意図を勘繰るから少し報酬を得ておけと言う人も居ますしね
相手への理解力がある人はその辺ずれてしまうので大変だと思いますね
あと、キリスト教などの逸話からも分かりますが無辜の民でいたい者にとって、自分の醜さを突き付けてくる対象は、しばしば苛立ちや怒りではなく憎悪の対象になります
私としては人間の事を知れば赦しは非常に重要な観点だと思うので、正しいと思って居ます
大変でしょうが頑張って下さい
by お名前(必須) (2019-11-17 14:09) 

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